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るしゅ
CO2
144
短編小説 3/? 1/? 1/?
─リン
またあの鈴の音が聞こえた気がした。
…。あれ?僕は自分の部屋にいたはずだ。けれど、デスクに置いたスマホを手に取ろうとして、手が止まる。
「……なに、これ」
指先が、妙に白く、細くなっている。
十六歳の少年のものにしては節くれ立ち、手のひらにはペンだこではなく、何かを握りしめ、扇子を叩き続けていたような、硬いタコができている。
慌てて鏡の前に立った。
そこには、茶髪で瑠璃色の瞳をした僕が映っている。はずだった。
鏡の中の僕は、まるで古い映像のノイズのように激しく揺れている。
茶色の髪は、ところどころ炭をぶちまけたような漆黒に染まり、鮮やかだった瑠璃色の瞳は、濁った夕刻の空の色に侵食されている。
「僕は、妓楼(ぎろう)、薫。……そう…じゃないの?」
自分の声が、鏡の向こうから聞こえてくる。けれどその響きは、少年のそれではなく、どこか艶っぽく、それでいてどこか枯れたものであつた。
僕は部屋を飛び出した。
まさか…。
「父さん! 母さん!みんな…!」
階段を駆け下りる。けれど、一段降りるごとに、足元のフローリングの感触が消えていく。ざらりとした、冷たい畳の感触。
リビングのドアを開けた瞬間、僕は息を呑んだ。
ソファも、テレビも、冷蔵庫もない。
そこにあるのは、煤けた梁(はり)が剥き出しの天井と、吹き抜ける隙間風。
一ヶ月前、親切に僕を送り出してくれた父は、そこにはいなかった。
代わりに座っていたのは、男装をした凛々しい武士の背中。
え?男装をした?何故男装をしていると思った?目の前にいるのは明らかに女性ではなく、男性なんじゃ…。
「おあき。何をそんなに慌てている。また新作の噺(はなし)で、民を驚かせる算段でもついたか?」
その声に、僕は足がすくむ。
その人は、父ではない。けれど、父と同じくらい大切な、「誰か」の気配がした。
その時、首が妙に軽くなった。
あれ?望遠鏡ですら、ない。なんてこと。僕は辺を見回した。
「うそ…、」
そこにはもう、現代の街並みなんて一片も残っていなかった。
瞳に映るのは燃えるような紅葉。
あのタヌキと狛犬が、僕を値踏みするように立っているのが見えた。
その時、脳内に強烈な濁流が流れ込んできた。
僕の知らない記憶。飢饉の苦しみ。家族の悲鳴。
そして、あの五月雨への、愛おしさと憎悪が混ざり合った、どろどろとした感情。
違う。僕は、妓楼薫だ。
必死に自分を繋ぎ止めようとする。けれど、僕の心を卑怯なほど鮮やかに、意識を塗り替えていく。
そうして気づけば自分の意識はすでに知らない誰かの激しい情念に埋め尽くされている。
「おあき? どうした。顔色が悪いぞ。……まさか、また理想論を語り出すつもりではあるまいな」
武士が、ゆっくりとこちらを振り返る。
その瞳は、冷徹な法を守る者の目だった。
その瞬間、僕の足元から全ての現実が崩れ落ちた。
フローリングも、望遠鏡も、父のいた日常も。
─リン
再び鈴がなった。
けれど今度は二度と元の自分には戻れないと何故かひしひしと感じていた。そして…、
「……あ。ああ、五月雨様」
瑠璃色の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
それが───としての最期の涙だったのか、「おあき」としての最初の悔恨だったのか。
わたしにはもう、分からなかった。
意識が、真っ赤な椛の海へと沈んでいく。
─リン
追い討ちをかけるように鈴が鳴る。
「おい?本当に大丈夫か?おあき!」
「?五月雨様?今、鈴が鳴りませんでしたか?」
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