テラーノベル
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深澤のマンションの駐車場に着くと、エンジンが止まる前から目黒はドアを開け、再び康二の体をそっと抱え上げた。その動きにはもう、一切の迷いはない。
リビングに入り、ソファに寝かせようとした目黒を、深澤が「おい」と制した。
「ベッド使え。ソファじゃ体休まんねーだろ」
「…でも」
「いいから。病人優先」
有無を言わさぬ口調に、目黒は「…ありがとうございます」と小さく呟き、寝室へと向かった。深澤のベッドに、康二の体をゆっくりと横たえる。シーツに体が沈むと、康二は苦しげだった呼吸を少しだけ穏やかにしたように見えた。
深澤が洗面所から濡らしたタオルを持ってきてくれる。目黒はそれを受け取ると、ベッドの脇に椅子を引き寄せ、康二の額の汗を丁寧に拭った。そのまま首筋、腕、手のひらまで、まるで壊れ物を清めるかのように、優しく拭いていく。その間、目黒はずっと無言だった。ただ、その真剣な眼差しと手つきだけが、彼の後悔と愛情の深さを物語っていた。
リビングで物音を立てないように気を遣う深澤の気配を感じながら、どれくらいの時間が経っただろうか。
ふと、康二の閉じられていた瞼が、微かに震えた。そして、ゆっくりと、ゆっくりと開かれていく。まだぼんやりとした瞳が、見慣れない天井を捉えた。
「…康二」
その変化に即座に気づいた目黒が、静かに名前を呼んだ。
その声に、康二の体がビクッと大きく跳ねる。まるで、忘れていた悪夢を急に思い出したかのように。そして、首だけをぎこちなく、ゆっくりと動かし、声のした方へと顔を向けた。
そこには、心配そうに自分を見下ろす、目黒の顔があった。涙で濡れた瞳でも、隈が刻まれた憔悴した顔でもない。ただひたすらに、静かで、真剣な眼差しが、まっすぐに康二を射抜いていた。
二人の視線が、静寂の中で交差する。康二の瞳に、再び警戒と怯えの色が浮かびかけた。
警戒の色を浮かべる康二の姿に、目黒はもう言葉を重ねることをやめた。代わりに、ベッドの横に置かれていた康二の右手を、両手で包み込むように、ゆっくりと握った。その手は少し冷たく、微かに震えている。
その温もりに、康二はさらに困惑した表情を浮かべた。そして、握られた手とは反対の手でベッドを押さえ、ゆっくりと上体を起こす。目黒から少しでも距離を取ろうとする、無意識の防衛本能だった。
目黒は、その姿を真正面から見つめ、静かに、しかし力強く、堰を切ったように本心を語り始めた。
「違う、康二。謝るのは俺の方なんだよ」
その声は、もう震えていなかった。
「康二が体調悪いのに気づけなくて、余裕がなくて酷いこと言った。見舞いにも行けなかったのは…なんて言っていいかわかんなくて、お前をこれ以上傷つけるのが、怖かったからなんだ。本当にごめん」
一言一言、確かめるように紡がれる言葉。目黒は続ける。
「康二のこと、捨てる権利なんて俺にはないし、そもそも…一瞬でも、そんなこと考えたことない」
全てを打ち明けられた康二は、ただ、困惑の色を瞳に浮かべたまま、目黒を見つめ返していた。信じていいのか、わからない。楽屋での冷たい瞳と、今の必死な瞳が、頭の中で混ざり合って、どう判断すればいいのかがわからなかった。
そんな康二の葛藤に気づかないまま、目黒は最後の言葉を、祈るように絞り出した。
「俺には、康二がいないとダメなんだ。だから、お願いだから…俺から、離れていかないで…」
その懇願するような声に、康二の頭の中はぐちゃぐちゃになった。目の前で必死に謝る目黒。もしかして、自分が勝手に勘違いして、彼をここまで追い詰めてしまっただけのではないか?いや、でも、あの言葉は…。様々な考えが頭の中を駆け巡り、康二は何も言えなくなってしまった。ただ、目黒の顔を見つめることしかできない。
その沈黙が、どれくらいの時間続いただろうか。
康二にとっては、それは思考を整理するための時間だった。しかし、最悪なことに、目黒はその沈黙を、自分に対する「拒絶」だと感じ取ってしまった。
康二の瞳に浮かぶ困惑を、自分への不信と読み違えたのだ。
目黒の顔から、血の気が引いていく。握っていた手から、力が抜けそうになる。ああ、もう、ダメなのかもしれない。俺の言葉は、もう、康二には届かないのかもしれない。絶望が、再び彼の心を黒く塗りつぶそうとしていた。
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