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第二十九話:走馬灯の点火と、再起の焔
視界が、ゆっくりと、けれど確実に真っ白な虚無へと染まっていく。
左腕を焼き焦がす紅羽の「熱狂」も、右腕の神経を壊死させる霰の「凍結」も、両足を奈落へ引きずり込む雲華と狂骨の「重圧」と「死寂」も……。そして、喉を無慈悲に締め上げる伊吹の「鋼」の冷たささえも。それらすべてが、まるで遠い対岸で起きている、自分とは無関係な出来事のように希薄になっていく。
(……ああ。もう、いいのかな。こんなに体が重くて、熱くて、冷たいなら……いっそ、このまま……)
心臓に深く突き立てられた瑞稀の毒が、僕の脳に残された最後の「理性」の灯火を、優しく、残酷に吹き消そうとしていた。痛みさえもが遠のき、ただ心地よい泥のような虚無が僕を包み込む。肉体が限界を迎え、魂が肉体という壊れかけた器から解き放たれようとした、その刹那のことだった。
沈みゆく意識の底、何もない暗闇の最果てで、一筋の、けれど何よりも力強い温かな光が灯った。それは、六人の支配者たちに蹂躙され、意思を持たぬ玩具として扱われる前の、朧月館の、あの騒がしくも愛おしい日常の断片だった。
「あるじ、見てみよ。今日のお月様は、とっても綺麗じゃのう。……ふふ、そんなにじっと見つめられると、妾も照れてしまうわ。……さあ、冷めないうちにこのお茶を飲むがよい。疲れておるんじゃろう?」
一番最初に聞こえてきたのは、玉藻の、穏やかな愛に満ちた声音だった。
縁側で月を背負い、僕を振り返った彼女の瞳。そこには僕を案じる深い情愛と、安らぎの光が宿っていた。彼女が淹れてくれた、少し苦くて、けれど心に染み渡るようなお茶の香りが、死にかけた脳の奥を微かにかすめる。彼女のたおやかな指先、僕を「あるじ」と呼び、対等に、あるいは慈しむように隣に置いてくれたあの穏やかな時間。その記憶が、凍りついた僕の心臓に、微かな、けれど確かな拍動を呼び戻す。
「旦那様! またそんなに働き詰めかにゃ。ほら、そこに座るにゃ。今、肩を揉んでやるにゃ。……まったく、旦那様が倒れたらこの宿はおしまいだにゃ。少しは自分を大事にするんだにゃ!」
次に響いたのは、お凛の、不器用で、けれど一途な気遣いに溢れた叱咤だった。
二股の尾を機嫌よさそうに揺らし、僕の背中を小さな拳で叩きながら笑っていた彼女。不器用な彼女が、僕のために一生懸命作ってくれた、少し不格好な握り飯。その米一粒一粒に込められた、言葉にならない献身の味が、今、枯れ果てた僕の口の中にありありと蘇る。彼女の、少し硬いけれど温かい掌の感触が、僕の魂を現実に繋ぎ止める。
「……あ、あるじ様。あの……庭にお花が、咲きました。……静かに、こっちに来てください……。早く見ないと、風に飛ばされちゃうかも、しれませんから……っ」
そして、僕の衣の裾を消え入りそうな力で掴んで、控えめに引っ張っていた一花の震える声。
臆病で、いつも僕の後ろに隠れていた彼女が、僕にだけ見せてくれた最高の宝物。彼女の屈託のない笑顔を守るために、僕はどれだけ無茶をしても、どれだけ傷ついても構わないと思っていたはずだ。僕を信じて、縋ってくれたその小さな手の温もり。季節外れの花の、鮮やかな色彩。
(……僕は、あの子たちの笑顔を守ると、そう決めたんだ。僕を信じて、あの宿で震えながら待っている彼女たちがいる場所へ……帰らなきゃいけないんだ!)
その想いが、冷え切っていた魂の深淵に、一滴の紅い火を落とした。
思い出という名の薪が、絶望の吹雪に煽られて、静かに、けれど逃れようのない猛火となって燃え始める。
「……あら? この子、もう意識を失って、魂の形さえ崩れ始めているはずなのに。どうして、こんなに『芯』が熱いの……?」
現実の世界で、紅羽が怪訝そうに僕の顔を覗き込んだ。彼女が注ぎ込んでいる「魅了の熱」ではない。それは、僕の内側から溢れ出す、運命を拒絶し、大切な者を救い出そうとする「意志の火」だった。
(玉藻。お凛。一花……。すまない、随分と待たせてしまったね)
心の中で彼女たちの名前を呼ぶたびに、胸の中の薪は爆発的に燃え上がる。五つの家宝から流れ込む膨大な呪いの奔流。六人の女王たちが僕を壊すために注ぎ込んだその「負の力」を、僕は今、破壊されるべき苦痛としてではなく、内なる炎をより大きく、より激しく燃やすための「油」として、強制的に飲み込み始めた。
瑞稀の毒が僕の魂を溶かそうとするなら、その溶けた場所に思い出の火を流し込めばいい。伊吹の鋼が喉を焼くなら、その熱を叫びに変えればいい。奪われた精髄を嘆くのではなく、奪おうとする彼女たちの魔力を、僕が逆に「主」として喰らい尽くしてやる。
(守るんだ。僕を信じてくれた、あの子たちを……。こんな暗い底から、光のある場所へ連れ出して、もう一度、朧月館のあの提灯の灯りを見せるんだ!)
その強烈な思念が、ついに臨界点を超えた。
精神世界を支配していた「死の白」が、黄金色の情熱によって一気に焼き払われる。僕の魂は、もはや蹂躙される弱さを捨て、六人の呪いさえも「自らの糧」として統べる、真の王としての覚醒を始めた。
「なっ……!? 心臓の拍動が、瑞稀の毒を……逆に喰らっている……!? 嘘でしょう、そんなこと……!」
僕の胸元に指を突き立て、恍惚としていた瑞稀が、驚愕に目を見開いた。僕の心臓。毒によって完全に支配されていたはずのその臓器が、今、思い出という薪を燃料にして、毒そのものをエネルギーへと変換し、全身の呪縛の回路を逆流し始めたのだ。
「お……、お……おおおおおおおおッ!!!」
僕の喉から、伊吹の首輪さえも粉々に震わせる、地鳴りのような咆哮が上がった。
それは屈辱の悲鳴ではない。思い出を薪に、呪いを油にして燃え上がった、一人の男が「真の主」として立ち上がるための、黎明の叫び。
この炎が、すべての枷を焼き切り、あの懐かしい宿へと道を切り拓くまで、あと数秒。
朧月館の最深部で、絶望を飲み込んだ「異形の王」が、ついにその眼を見開こうとしていた。
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