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最後の嘘。
その文字を見たまま、美沙は一睡もできなかった。
客間の薄い布団の中で、何度も寝返りを打つ。隣の寝室からは、航平の寝息は聞こえない。きっと彼も眠れていないのだろう。
けれど、美沙はもう、その沈黙に怯えなかった。
夜間窓口でもらった異議申立書。
妻異常申告書。
里緒から送られてきたメッセージ履歴。
通帳のコピー。
ローン申込書の写真。
水野香奈という名前。
すべてをスマホとクラウドに保存し、紙にも印刷した。千尋にも共有した。
美沙は、ずっと何も持っていないと思っていた。
夫の言葉に言い返せる強さもない。
義母に逆らえる自信もない。
ひとりで生きていく覚悟もない。
でも今、美沙の前には紙があった。
紙は、泣かない。
紙は、怒鳴らない。
紙は、「考えすぎだ」と言わない。
ただ、そこに残る。
朝、航平はリビングにいた。
テーブルの上には、飲みかけのコーヒー。
スマホは伏せられている。
美沙が入っていくと、航平はゆっくり顔を上げた。
「昨日のことだけど」
先に口を開いたのは航平だった。
その声は、驚くほど穏やかだった。
「俺も悪かった」
美沙は黙って立っていた。
航平は椅子から立ち上がり、近づいてきた。
「怒鳴ったのは悪かったよ。美沙が録音なんてするから、ついカッとなった」
謝罪の形をしている。
けれど、真ん中に針がある。
私が録音したから。
だから、怒鳴った。
美沙は、もうその針を見落とさなかった。
「それで?」
「それでって……」
航平は困ったように笑った。
「俺たち、夫婦だろ。こんなふうに証拠だの録音だの、弁護士だのって、普通じゃないよ」
「私の名前で借入申請をしようとしたのは、普通なの?」
航平の笑顔が薄くなる。
「あれは、ちゃんと説明しようと思ってた」
「今、説明して」
「だから、投資の一部だよ。美沙名義の方が条件がよかっただけ。夫婦なんだから、家のために使うなら問題ないだろ」
「私に確認してない」
「確認したら、どうせ反対するだろ」
「反対するよ」
美沙は即答した。
「私の名前だから」
航平の目に苛立ちが浮かんだ。
「またそれか。名前、名前って。夫婦でそんな線引きする方がおかしいんだよ」
「線を引かなかったから、ここまで来たの」
美沙の声は静かだった。
自分でも不思議なくらい、震えていなかった。
「航平、私は今日、あなたと話し合うためにここにいるんじゃない」
「は?」
「伝えるためにいる」
美沙はテーブルに封筒を置いた。
中には、離婚届のコピー、証拠一覧、今後は千尋の紹介する専門家を通して連絡してほしいという文書を入れてある。
なっつん🐶💚
237
#大人ロマンス
煉彩
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#不倫
さぶれ-SABURE-
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「離婚します」
航平の顔から表情が消えた。
一秒。
二秒。
三秒。
そのあと、航平は笑った。
「無理だよ」
「無理じゃない」
「美沙にできるわけないだろ」
その言葉は、予想していた。
それでも胸が痛んだ。
航平は続ける。
「仕事だってパートだろ。生活どうするんだよ。家賃、保険、手続き、税金、全部分かってるのか?」
「分からないことは、調べる。人にも頼る」
「誰に? 千尋さん? あの人が一生面倒見てくれるの?」
「一生面倒を見てもらうために頼るんじゃない」
「じゃあ、実家か? その歳で親に泣きつくのか」
その歳。
美沙は、心のどこかが冷たくなるのを感じた。
航平は、いつもそうだった。
美沙の不安を、正確に見つけて刺してくる。
年齢。
お金。
孤独。
世間体。
それらを並べれば、美沙が黙ると知っている。
「美沙」
航平の声が急に柔らかくなった。
彼は一歩近づき、美沙の手を取ろうとした。
「俺には、美沙しかいないんだよ」
美沙は手を引いた。
航平の指が空を掴む。
「昨日は言いすぎた。里緒のことも、もう終わらせる。金のこともちゃんと整理する。だから、そんな大げさなことにしなくていい」
「大げさ?」
「そうだよ。夫婦なんだから、話し合えば戻れる」
「私は、何度も話そうとした」
「じゃあ、今話そう」
「違う」
美沙は首を振った。
「私が話そうとした時、あなたは私を疑り深いと言った。おかしいと言った。病院に行けと言った。母にも義母にも、先にそう伝えた」
航平の表情がこわばる。
「それは心配して」
「心配じゃない。準備だよね」
航平は黙った。
美沙は、その沈黙を見た。
それが答えだった。
「私が声を上げた時、誰も信じないように。私が証拠を出した時、あいつは不安定だからって言えるように。あなたは先に、私の信用を削っていた」
「被害妄想だ」
「その言葉も、もう聞き飽きた」
航平の顔が歪んだ。
「お前さ」
声が低くなる。
「自分がどれだけ面倒な女になってるか、分かってる?」
来た。
美沙は思った。
泣き落としの次は、脅し。
謝罪の次は、攻撃。
「里緒に会ったんだろ。母さんにも変なこと言って、俺の持ち物も勝手に漁って、録音までして。そんな女、誰がまともだと思う?」
美沙は何も言わなかった。
航平はさらに近づいた。
「離婚したら困るのはお前だぞ。俺は仕事もある。信用もある。周りは俺の話を聞く。でもお前は?」
航平は笑った。
「お前みたいな女、誰にも必要とされない」
その言葉は、まっすぐ胸に刺さった。
痛かった。
でも、美沙は崩れなかった。
なぜなら、それこそが最後の嘘だと分かったからだ。
誰にも必要とされない。
航平が最後まで隠していた嘘。
美沙に信じ込ませたかった嘘。
この家を出たら、お前には何もない。
俺に捨てられたら、お前は空っぽだ。
だから戻ってこい。
だから黙れ。
だから我慢しろ。
美沙は、ゆっくり息を吸った。
「だから、私が私を必要とすることにした」
航平の眉が動いた。
「何だよ、それ」
「あなたに必要とされるために、私は私を小さくしてきた。言いたいことを飲み込んで、疑問を消して、痛かったこともなかったことにしてきた」
美沙は、自分の手を見た。
この手で、味噌汁を温めてきた。
この手で、通帳をめくった。
この手で、離婚届を握った。
この手で、自分の名前を書いた。
「でも、もうやめる」
「美沙」
「私の人生は、あなたの言葉で受理されるものじゃない」
航平は口を開いたが、何も言えなかった。
その沈黙を、美沙は初めて怖いと思わなかった。
美沙は封筒を航平の前に押し出した。
「今後の連絡は、直接ではなく記録が残る形でお願いします。必要な手続きは、専門家を通します」
「本気か」
「本気」
「後悔するぞ」
「後悔なら、もう十分した」
美沙は寝室へ向かった。
クローゼットを開け、用意していた小さなキャリーケースを出す。
荷物は多くなかった。
着替え。
通帳。
印鑑。
必要な書類。
ノート。
母からもらった古いハンカチ。
結婚指輪は、外して小さな箱に入れた。
アルバムには手を伸ばさなかった。
十二年分の写真は、今は重すぎる。
けれど捨てることも、まだできない。
それでいいと思った。
全部を今日、決めなくていい。
ただ、戻らない方向へ一歩進めばいい。
玄関に向かうと、航平が立っていた。
「どこ行くんだよ」
「実家。今日は」
「今日は?」
「その先は、自分で決める」
航平は何か言いかけたが、美沙の手元のスマホに気づいて口を閉じた。
録音画面が動いている。
美沙はドアノブに手をかけた。
「航平」
最後に名前を呼んだ。
夫が顔を上げる。
「私は、壊れてない」
航平は答えなかった。
「壊れてないまま、ここを出る」
美沙はドアを開けた。
廊下の空気は冷たかった。
けれど、息ができた。
実家へ向かうタクシーの中で、美沙はバッグから夜間窓口の封筒を取り出した。
妻異常申告書。
異議申立書。
我慢届。
その一番下に、新しい紙が入っていた。
いつの間に入ったのか分からない。
白い紙ではなかった。
淡い灰色でもない。
薄い緑色。
離婚届と同じ色。
表題には、こう書かれていた。
我慢届 取り下げ申請書
申請者欄には、すでに美沙の名前が印字されている。
その下には、空白の署名欄。
そして赤い文字で、一文。
最終受付にて、本人の意思確認を行います。
美沙は、車窓の外を見た。
夜の街が流れていく。
かつて帰る場所だと思っていた部屋が、少しずつ遠ざかっていく。
怖くないわけではない。
お金も不安だ。
手続きも不安だ。
明日からの生活も、不安だらけだ。
それでも、美沙はもう、自分の不安を航平に預けない。
バッグの中で、我慢届取り下げ申請書が静かに揺れた。
午前零時まで、あと少し。
最後の窓口が、待っている。