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でも、台風が来る今日のような日ぐらい、定時で店じまいをして早めに帰って来て欲しいと願ったって、きっと許されるよね?
本当に言いたかった言葉をグッと飲み込んだくるみに、実篤が「うん。なるべく早よぉ帰ってくるけんね。くるみちゃんは家でおとなしゅう待っちょって?」と腕に力を込める。
「……実篤さん。分かっていらっしゃると思うけど……うち、一人は不安なん……。じゃけぇ……」
実篤の腕の中、くるみが実篤の顔を見上げて色素の薄い瞳をゆらゆらと揺らせるから。
実篤はそんなくるみに口付けを落とすと、
「残業はせん。約束する」
そう言ってくれたのだった。
***
くるみと実篤の家がある御庄地域には、錦川水系の二級河川、御庄川が流れている。
岩国一の山岳として知られる高照寺山を水源として北へと流れるこの川の途中には、治水ダムの御庄川ダム(五瀬ノ湖)があり、支流・古宿川を合わせて御庄橋付近で錦川へと注ぐ川だ。
錦川ほど滔々と水をたたえているわけではないけれど、雨が降ったりするとそれなりに増水する。
そんな御庄川沿いに軒を連ねているくるみの実家は、大雨に対して排水が間に合わなくなると内水氾濫が起こりやすい危険地域として、市が発行するハザードマップに載っていた。
店仕舞いと台風に備えた養生をして、さぁ帰ろうかと皆で外へ出たら、目の前の国道一八八号線がちょっとした川のようになっていて――。
水を跳ね飛ばしながらも車が走れているところを見ると、自動車が走れなくなると言う水深一〇センチの壁はまだ超えていないようだが、ぱっと見すでに三センチくらいにはなっていそうに見えた。
近くのグレーチングや側溝に水が入りきらずに深く溜まっているのを認めて、実篤は排水許容量を超えたな、と思う。
「雨、全然止む気配ないけど……大丈夫じゃろうか」
クリノ不動産がある麻里布町付近には大きな川はない。
そんな地域でさえこれ。
市内にいくつも流れている川に面した地域のことを思うと気が気ではない。
実際、我が家がある御庄地区だって例外じゃなかったから、 河川が氾濫したとかそういう情報は入っていないだろうかとふと心配になった実篤は、無意識にそうつぶやいていた。
今朝、くるみにはなるべく早く帰って家で待つように伝えたけれど、あの指示は間違ってはいなかっただろうかと不安になる。
実篤の言葉を受けて、さすがと言うべきか、 若い田岡がすぐさま携帯を操作して、 リアルタイムで利用者たちが近況をつぶやく『ツブヤイター』の画面を操作して、岩国市近郊の最新のツイートをチェックしてくれた。
しばし黙って画面を見詰めていた田岡が、「あのっ! 社長が今住んでおられるのって御庄でしたっけ!?」と慌てたような声を出す。
「うん、そうじゃけど」
言ったら、「大変です。何か川西の方やら柱野の方やら、大水が出て道が水に浸かっちょるって」と画面を見せてくれた。
田岡が見せてくれたスマートフォンの画面には、見慣れた川西の交差点近辺の、見たことのない光景が写っていて、 玖珂方面・錦帯橋方面・平田方面に続く三差路付近がどっぷりと泥水に沈んでいた。
付近に県立岩国高校があるため、そこの交差点には歩道橋が掛かっているのだが、その歩道橋の状況から判断するに軽く一メートルくらいは水没していそうで、 交差点全体が、まるで泥水をたたえた池のように見えた。
「嘘……じゃろ」
呆然と漏らしたら、田岡が言葉を失くしたように眉根を寄せる。
川西より御庄に近い柱野と言う地域でも、ここまでではないもののあちこちで床上浸水しているらしい。
恐らく台風の影響からの豪雨で、錦川が氾濫したのだろう。
別に川西付近がこんな風に水に浸かっているからといって、御庄もそうだとは限らない。
でも――。
「ちょっと俺、消防団の方へ連絡してみてから帰るわ。みんな、気ぃ付けて帰り?」
本当は今すぐにでもくるみに電話を掛けて安否を確認したいところだけれど、それでもし彼女と連絡が取れなかったりしたら皆を足止めしかねない。
そう考えた実篤は皆に見えないよう死角の所でグッとこぶしを握り締めるとそう言ってニヤリと笑ってみせる。
「じゃけど社長」
「大丈夫。ちょっと話を聞いて帰るだけじゃけ」
実篤、実は地域の消防団に所属している。
仕事が忙しかったりプライベートが立て込んでいる時にはなかなか参加できないが、だからと言ってそれを咎められるようなことはない。
このところバタバタしていて少し行ける頻度が下がっているけれど、籍はちゃんと置いたままだ。
「変にネットを調べるより確実な情報が得られるじゃろ?」
そう言ったら、皆が不安そうな顔で実篤を見詰めてくる。
「そのまま団の活動に駆り出されたりせんちょってくださいよ?」
災害時ではあるし、きっとバタバタしているはずだ。
不安そうに宇佐川に言われて、(くるみちゃんを一人にしてそんなことできるわけなかろーが)と思った実篤だ。
「俺もそこまでお人好しじゃない。くるみのことが第一優先じゃわ」
気持ちがはやる余り、皆の前で「くるみ」と呼び捨てしてしまったことにも気付けなかった実篤だったけれど、逆にそれが良かったのか、みんな納得してくれた。
社員らが車に乗り込んで帰っていくのを見送って、やっと。実篤は携帯を取り出してくるみに電話を掛けた。
だが、待てど暮らせどくるみは応答してくれなくて、通話口からはコール音だけが続いている。
「くそっ」
案外、たまたま携帯のそばにいなくてすぐに出られないだけかもしれない。
そう思いたいのに嫌な想像ばかりが脳内をめぐってしまう。