結局実篤は消防団には向かわず、団に電話もかけなかった。
そんなことをしなくても今、自分がいる麻里布町の状況を見れば、窪地になっている川西の辺りや、平田の辺りが水没するのは納得がいったから。
自分たちの家がある御庄は、周りを山々に囲まれた盆地だが、ハザードマップと照らし合わせてみるならば危険な地域であることは否めない。
実篤は一旦事務所に入ると、再度テレビをつけた。
地域密着型のケーブルテレビ『イワ・キャン』が提供する、市内各所に取り付けられた定点カメラの撮影した映像が二十四時間ずっと流れ続けているチャンネルに合わせると、各地のライブ映像が画面に四分割されて映し出される。
カメラは全部で十二地点分あるので、映し出す地域を三十秒ごとに切り替え、切り替えして……およそ一分半ほどで市内全部の地点を観ることが出来る仕様だ。
それに目を凝らすと、御庄にほど近い柱野や岩国インター付近が水没しているのが見てとれた。
カメラに向かって雨風が吹き付けているのだろう。
いつも以上に不鮮明な映像ではあったけれど、我が家の辺りが水害に遭っているであろうことは分かった。
実篤はテレビを消すと、倉庫の鍵を手に事務所裏へ行く。そうして事務所裏に設置した倉庫内からオレンジ色をした台形の大きな箱を取り出した。
長さ約一.二メートル、高さ約八十センチのそれは、真ん中に蝶番があって、トランクのようにパタリと観音開きにすることが出来る折り畳み式の船だ。
実は父・連史郎が社長をやっていた頃にも、今回と同じように市内数か所が水害に見舞われたことがあった。
幸い事務所がある麻里布町近辺も、由宇町にある我が家の辺りも無事だったけれど、平田付近へ営業に出ていた従業員が水に閉じ込められて立往生をして、その時には地元の消防の手で助けられて事なきを得たのだが、それを踏まえて連史郎が社長の代から、クリノ不動産では災害用ボート一艘と、救命胴衣を従業員の人数分は確保するようにしている。
連史郎が消防団に入り、息子の実篤が同じようにそうしているのも、そういう経験を踏まえてのことだ。
幸い以後災害用ボートを必要とするような事態に見舞われることなく過ごしてこられて、十年以上経ったということで、初代のゴムボート式のものは廃棄して、実篤の代になって買い替えたのが今倉庫から取り出したばかりのオレンジ色の箱――折り畳み式の防災用ボートだ。
こちらは中古の軽自動車が一台買えてしまうほどの値段がするものの、消費年数が約二十年あるからゴムボートよりは長持ちする。
それに、いざと言う時を思えば、開いただけで使用可能なこのボートの方が便利だと考えたのだ。
実篤は常日頃からこういう経費はケチってはいけないと思っている。
それは連史郎の教えでもあるのだが、父親に考え方が一番似ている実篤自身も、同じ考えだ。
この防災ボート、定員は四名なので従業員全員を乗せることは叶わないが、今回は最悪の場合くるみと自分が乗るだけだから問題ないだろう。
きっとこれも使うことなくいつか買い替えになるだろうなと思っていた実篤だったが、まさか役立つ日が来ようだなんて思わなかった。
実篤は雨のなか車を倉庫そばに着けると、最前列以外のシートを全て倒して荷室を確保した。
そこへ台車に載せて運んだボートを積み込むと、作業を終えた頃には横殴りの雨で全身びしょ濡れになっていた。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
実篤は車のシートが濡れるのも構わず、運転席に乗り込むと、エンジンを掛けた。
降り続く雨のせいで先程皆を見送った時より道路の水嵩が増しているけれど、それでもまだ十センチは超えていない。
くるみとは未だに連絡が取れないままなので実際彼女がどこにいるのかは分からないから。
実篤は普段くるみとの連絡に使っているメッセージアプリと、NCCグループ(Nippon Communication Corporation)が提供している災害伝言ダイヤルサービスの両方へ『家に向かうけぇもし自宅におるなら動かんちょいて? 違うところにおるなら俺の携帯宛に伝言を残して?』とメッセージを入れた。
***
腰の辺りまで水が上がって来てしまった。
いつもより少し遅めに家に着いたくるみだったけれど、その時点で家の近くのあちこちの地域で浸水しているのが分かった。
(このままじゃ、うちん家が浸かるんも時間の問題じゃ)
そう思ったくるみが、家の中の大事なモノを持ち出そうと中に入ってすぐ、見る間に泥水が押し寄せて身動きが取れなくなってしまった。
くるみは大事な商売道具である愛車を高台へ上げることも、必要なものをどこかへ避難させることも出来ないまま一気に流れ込んできた泥水に浸かって、家の中で途方に暮れていた。
もしかしたら自分が警報を聞きそびれている間に御庄川上流のダム湖で放水が行われたのかも知れない。
そう思えば、ずっとサイレンみたいなものが鳴り響いているし、防災無線が何か言っている。けれど雨と風でほとんど聞き取れなかったから。
隣近所に人の気配がないことからもそんな気がして、くるみはにわかに心細くなった。
おまけに雨は一向に止む気配がない。このままだと胸の辺りまで浸かるのも時間の問題に思えた。
しかも。考えてみたら自分は今、家の中にいるのだ。
床が高いはずの家の中でこれなら、きっと外へ出たらもっと。
くるみは寒さからだけではない悪寒に身体を震わせると、それでもここまで来たのだからという思いに駆られて一生懸命仏間を目指そうとして、浮力で浮いてきた家具に行く手を阻まれて立往生してしまう。
濁った水の中、ひざ裏辺りにトン……と何かがぶつかって来てひざがカクンとなったくるみは、危うく水の中に転びそうになって……。慌てて踏ん張ったらお尻の辺りに違和感を覚えた。
その感触でジーンズのお尻ポケットに入れたままにしていたスマートフォンのことを思い出したくるみは、慌ててそれを取り出してみる。
防水機能のお陰で何とか携帯が生きていることを確認したと同時、通知がたくさんたまっていることに気が付いた。
見れば、実篤からの通知に混ざって、栗野の実家の義父母――連史郎や鈴子からの着信、鏡花や八雲からのメッセージを受信した旨を知らせる通知がずらりと並んでいた。
開かなくてもきっと、みんな自分を心配してくれているんだと分かったから、くるみは涙目になりながらスマートフォンの画面を見て……自分はもう独りぼっちじゃないのだと今更のように自覚した。
とりあえず実篤に電話を掛けようと、通知のひとつをタップしようとしたらつるりと手が滑ってスマートフォンが泥水のなかにトプンと沈んで見えなくなってしまう。
くるみは命綱を失ったような気持ちに駆られて絶望的な心境になった。
(じゃけど――)
こうなる寸前。携帯画面に沢山表示されていた〝家族〟からの通知を思い出したくるみは、こんなところでもたもたして溺れ死んだりしたらみんなを悲しませてしまう。
(とりあえず高いトコ……)
そう自分を奮い立たせて何とか家屋の外に出ると、家の近くまでたまたま流れ着いていた瓦礫を伝って、自宅の屋根の上へ登ることに成功した。
雨は未だにざぁざぁ降り続いていて、台風の影響で降っている雨なので風も強い。
日が当たらないこんな悪天候の日に、吹きっさらしの屋根の上にびしょ濡れの状態でしがみ付いていたら、どんどん体温を奪われていく。
くるみは寒さと心細さで泣きたくなった。
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