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「すみません、もうすぐ閉店なんで……お客さん?」
勢いよく店の扉を開くと、前に来た時と同じマスターらしき男性がこちらを見て話しかけてきたのだけど。何故が戸惑うような表情をしたその男性を見て、自分の目から涙が零れていたことに気付く。
私が思っているよりもずっと、自分自身が限界を感じていたらしい。止めようと思えば思うほどに瞳からはとめどなく涙が溢れてくる、まるで決壊が壊れたかのように。
「あ、閉店なんですよね? すみません、すぐ出ますから」
「いいですよ、その奥の席に座ってください。どうせ僕も明日の準備にもう少しかかりそうだったからね」
あえて彼に近いカウンターではなく、離れた奥の席を勧めてくれたのもきっとマスターなりの気遣いだろう。窓もない席に座り、溢れる涙を手で拭っているとおしぼりとホットコーヒーがテーブルに置かれた。
「あの、私……」
「試作品なんです、後で感想を聞かせてくださいね」
それだけ言うと、マスターはまたカウンターの中に戻りグラスを拭き始める。途中何かを思い出したように「ちょっと忘れ物を取ってきますね」とだけ言うと、そのまま奥の扉の向こうに行ってしまう。
いい人過ぎるんじゃないかと思いながら、温かなおしぼりで目元を優しく拭う。他人からの思いやりがこうも心に染みるのに、どうして一番大切だと思う相手からの優しさがこんなに辛いのか。
それはきっと……その優しさのわけが私への後ろめたさからなのだと気付いてしまったから。
岳紘さんはあの時、間違いなく「本当の愛」と口にした。それは私との関係がそうではなかったのだとハッキリ言っているようなもので。
彼が私の事を愛せずにいた事は分かっていた。けれど心のどこかでもしかしたら、と期待していたのも事実。それをこれから先、絶対に有り得ないと否定されたのと同じこと。
置かれたコーヒーカップは触れると熱いくらいなのに、私の心の中は寒々としていて。そのちぐはぐさに笑いが込み上げてきそうになる。
「夫婦間不純ルール、ね……」
やはりあの時決められたルールは岳紘さんにとって都合の良いものだったに違いない。お互いのためだと言いながらも、きっと彼は……
あの時にハッキリとそんなルールは嫌だ、自分たちに必要ないと言えていれば何か違った可能性はある? いいえ、きっとその時には既に夫には愛しい人がいたに違いない。
「もしかしすると、今だって……」
私が家にいないことに気付いた岳紘さんが、その女性に会いに行っているかもしれない。それどころか自分が出て行った事が彼にとって都合が良い可能性だってある。
そう考えれば考えるほど、胸が締め付けられるように苦しい。岳紘さんから拒否されたあの夜と同じくらいか、もしくはそれ以上に。
マスターが戻ってきたのか、カランと扉の開く音がしたが俯いたまま動けない。きっととても酷い顔をしているだろうから、誰にも見られたくなかったのに。
「お待たせ、雫先輩」
「え? 奥野君、どうして……」
今ここにいるはずのない奥野君が、私の顔を覗き込むようにして声をかけくるなんて。それも走ってきたのか、彼は息を切らし額には汗をかいていた。
驚きで溢れていた涙もピタリと止まり、ただ唖然として彼を見上げていると……
「俺に会いたいって思ってここに来てくれたんですよね、違いますか?」
「ちが……」
はっきり違うとは言えなかった、確かにここに来るまで私が頭の中で思い浮かべていたのは奥野君だった。私と岳紘さんの秘密については話せないけれど、夫に別の女性がいると教えてくれた彼にしかさっきの出来事を打ち明けられない気がして。
いつもならば真っ先に相談するのは親友の麻理なのに、今一番に自分が望む言葉を与えてくれるのは奥野君だと感じていたのかもしれない。
「違いますか? 本当に違うのならこのまま帰ってもいいんですけど」
「あ……」
私の曖昧な態度に奥野君は困った様にそう言った。彼なりに気を使ってくれたのかもしれないが、今一人にされるのは辛すぎて。気付いたら彼のシャツの裾を掴んでしまっていた。
「嘘です、そんな顔をした雫先輩を一人に出来るほど俺は人でなしじゃないですよ」
そう言って向かいの席に座ると、そのまま笑顔でマスターにコーヒーを注文する。もう閉店時間だって彼は知っているでしょうに。いつの間にかカウンターに戻っていたマスターは小さく頷くと、こちらに背を向けるようにしてコーヒーを淹れ始めた。
それが私たちの話を聞く気はない、という彼の配慮なのだとすぐに分かった。