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「……結局、あいつに泣かされたんですか?」
「どうしてそう思うの、他の理由だってあるかもしれないのに」
言い返しても私がここにいる理由なんてバレバレだということくらい分かってる。でもそれを素直に認めてしまうのは悲しくて悔しい。
奥野君は私に夫が別の女性と会っていると私に教えてくれたのに、都合の悪い事を聞かない振りしたのは自分自身だったから。
「想っていればいつか私を見てくれると信じていたの。馬鹿みたいでしょ、笑ってもいいのよ?」
「……笑いませんよ、他の誰が何と言おうと俺は雫先輩の味方。悪いのは先輩を泣かせるあいつなんだから」
私の言葉を真剣な表情で聞いてくれる彼の手が、テーブルに置かれたままになっていた私の手に重なったが振り払いはしなかった。それにどんな感情が含まれていたとしても、今の私に必要なのは人の温もりと癒しなんだと分かっていたから。
それに、奥野君が強引に私の嫌がることはしないという自信もあったのかもしれない。そこで私はふと気が付いた。
……夫の岳紘さんには私が気を使う立場なのに、こうして奥野君を相手にすると気を使われる立場になっていることに。
「変なの……」
「え? 何が変なんです、それって俺の事?」
奥野君は戸惑ったように私の様子を窺うが、彼の表情は大型犬が飼い主を心配そうに見る姿に似てて何となく癒された。
それは私が今まで岳紘さんと過ごしていても、決して得られることが出来なかったもの。
「いいえ、何でもないの。それより、どうして私がここにいることが分かったの?」
「雫先輩が泣いてる気がしたから、とか言えればヒーローみたいで良いんですけどね。本当はマスターから連絡を貰いました、貴女が店に来てるって」
そう言っておどけたように笑って見せるのも、きっと私を励まそうとしてくれているのだと思う。どうやらこの店のマスターと奥野君は古くからの付き合いらしく、休日には一緒に出掛けたりもするような仲らしい。意外だった。
「こんな時間に外に出ることに、奥野君の奥さんは反対しなかったの……?」
自分は嫌な人間だと思う、彼に妻という特別な女性がいることをちゃんと分っていてこんな質問をしている。奥野君がここに来てくれてなければ、私はきっとまだ涙も止められないままだったに違いないのに。
「彼女はこんなに早くにマンションに帰って来ませんから、反対もなにも」
視線を左手の薬指に落とした奥野君、その表情はどこか寂し気で。私と同じように、彼も夫婦関係に何かしらの悩みがあるのだと気付かされた。
家で相手を待つ時間が、どれだけ孤独で寂しいかを私もよく分かってる。それはきっと奥野君も同じことで……
「反対して欲しいのね、そう言えないような相手なの?」
「……どうでしょうね。雫先輩こそどうなんです、あいつに寂しいと伝えたことはありますか?」
そう聞き返されると返事に困る、言われてみれば私が岳紘さんに対してそういう事を伝えたことは一度もなかった。それを言葉にしてしまえば、なおさら夫の心が自分から離れていく気がして。
つまりそういう事なんだ、奥野君が奥さんに本音を言うことが出来ないのにはちゃんと訳があるということ。
「言えてない、私の言葉がきっと夫には重荷になるから」
「俺も妻の負担になりたくはないんです、臆病者の言い訳なのかもしれないけれど」
傷の舐め合いだと言われるかもしれない、だけど私と奥野君はどこか置かれている立場が似ているような気がして。私の事を気にする素振りを見せながらも、彼は奥さんのことを考えている。私がいま奥野君を前にしても、夫である岳紘さんの事を思い浮かべるのように。
「結婚って、夫婦ってもっとお互いを分かり合えてるものだと思ってた。それなのに理想と現実があまりにも違いすぎて、どうしていいのか分からない」
「雫先輩……」
少しくらい理想と違う結婚生活でも、岳紘さんの心が私でない誰かに向いてなければ我慢出来た。でも彼の心も身体も、私ではない他の女性を欲しているのだと思うと鳥肌の立つような寒気さえ感じるのだ。苦しくて悲しくて……それだけで辛くて心が壊れてしまいそうになる。