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番外編菊葉家の茶飯事
― 枕元の聖典、銀の指輪が照らす夜 ―
東山の夜は、しんしんと冷える。
昼間の賑やかな庭掃除の喧騒が嘘のように、菊葉屋敷は深い静寂に包まれていた。時折、庭の竹林が夜風に揺れて、さわさわと擦れ合う音だけが、結界の内側に響いている。
椿は、十四歳の自分とようやく仲直りしたような、どこか晴れやかな寝顔で深い眠りについていた。182cmの大きな体を布団に丸め、少しだけはみ出した右手の人差し指には、先日四条河原町で手に入れた銀の指輪が、月光を吸い込ん
で鈍く光っている。
「……全く。何度言えばわかるんですか。こんな大切なものを、また物置の隅に戻そうとするなんて」
足音を殺して寝所へ現れたのは、梅だった。
彼女は白銀の瞳を細め、椿の枕元に無造作に置かれたあのノート――『最強の断罪者への道』を見つめた。
昼間は「だらしなき当主」と切り捨て、蓬や桐と一緒にさんざん笑い飛ばしたが、梅は知っている。この埃を被ったノートの余白にどれほど椿の孤独な夜の叫びが、そして一族への不器用な愛が詰め込まれていたかを。
梅はそっと膝をつき、ノートを手に取った。
指先が触れると、自分の指にあるお揃いの指輪が、椿の鼓動と共鳴して微かに熱を帯びる。
ページを捲れば、そこにはまだ幼かった椿が、震える筆致で描いた自分たちの似顔絵があった。
『いつか梅と蓬と桐を守れる、最強の「鞘」になる』
その隣に、先ほど自分が書き足した『独りで背負うのは禁止です』という文字が並んでいる。
「……ふふ。狼になれなかったのは、私たちがあなたを捕まえて離さなかったからですよ、椿」
梅は、眠る当主の顔をじっと見つめた。
十四歳の椿が夢見た「家族みんなで笑える未来」。それは、一人の命を四人で分かち合う一蓮托生という禁忌の術によって、歪な形で叶えられてしまったのかもしれない。
けれど、今この屋敷を流れる穏やかな空気は、どんな正当な平穏よりも、彼らにとっては「救済」そのものだった。
梅はノートを物置へ戻すことはせず、椿が目覚めた時にすぐ手が届く枕元の文机、その一番上の引き出しへと、壊れ物を扱うように大切に収めた。
隣の部屋からは、蓬の屈託のない寝息と、影の中で気配を消して眠る桐の、凪のような静かな呼吸が聞こえてくる。
四人の指にある銀の輪が、月明かりの下で静かに、けれど力強く共鳴し合っている。
「……おやすみなさい、当主様。明日もまた、私たちがあなたを『最強』に仕立て上げてあげますから」
梅が立ち上がり、音もなく部屋を去る。
その瞬間、眠っていたはずの椿の指先が、無意識に梅の去った気配を追うようにぴくりと動いた。
黒歴史と呼ばれたノートは、今、一族の行く末を照らす「希望の記録」として、椿の眠りを深く、優しく守り続けていた。
「梅のだし巻き卵、その隠し味は『厳格な規律』でしょうか、それとも『不器用な慈しみ』でしょうか?(……もしかすると、このノートに書かれた『秘密』も隠し味の一つかもしれませんね)
次なる記録: ― 泥の眠り、四つの銀輪が結ぶ夢 ―