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春がやってきて、七香も社会人二年生になった。しかし経理部に新入社員は配属されず、今年も七香と珠姫が一番の若い社員となった。
とはいえだいぶ仕事にも慣れてきたので、先輩たちから任されるものも増え、七香は仕事の楽しさと充実感を味わえるようになってきた。
この日も残業を終え、カサカサと音を立てながら揺れるコンビニの袋を片手に、へとへとになりながら、ゆっくりとした足取りで一人暮らしをするマンションに辿り着く。すると隣の部屋にあかりが灯っていることに気付く。
しばらく空き部屋だったが、ようやく人が入ったのかーーそう思いながら、自室の部屋の鍵を開けて入ろうとした時だった。
突然隣の部屋のドアが空いたので、七瀬は驚いて体をビクッと震わせる。疲れているし、挨拶するのも少し面倒くさいと思い、急いで中に入ろうとしたが、
「こんばんは」
と声をかけられてしまい、諦めて笑顔を顔に貼り付ける。
「あっ、こんばんは……って、えっ⁈」
相手の顔を見た途端、七香は今までの疲れが吹き飛ぶほど大きな声を出した。ドアに寄りかかるように微笑んでいたのは、紺色のボーダーTシャツにデニム、少し髪は伸びたが、相変わらず端正な顔立ちの昴だったのだ。
「お疲れ様。何、毎日こんなに遅いわけ?」
「す、昴くん⁈ なんでいるの⁈」
「なんでって、帰国したからだけど。これからはこっちで仕事することになったんだ」
昴は淡々と話しながら、自分の部屋のドアと鍵を閉める。
「だって、そんなこと何も言ってなかったじゃない! 昼だって『蕎麦を食べた』って……」
「あぁ、あれ下の蕎麦屋さん。引っ越したらそばに決まってる」
「そういう意味だったのか……って、そうじゃなくて! 帰国するならなんでいってくれなかったの?」
「ん? だって七香の反応が見たかったから。はい、これ、ご挨拶の蕎麦。乾麺だから日持ちする」
「あ、ありがとうーーじゃなくて! しかもなんで隣なの⁈ 住所なんて教えてないよね」
「んー、それは……秘密」
「秘密⁈」
「こんな時間にそんな声出したら、他の住民に迷惑だろ。続きは七香の部屋で話そうか」
「えっ? 私の部屋?」
疲れているせいか頭が働かず、グイグイと背中を押されて部屋に入ってしまった。
玄関で靴を脱ぎ、廊下沿いにあるキッチンの前を通過し、ドアを開けてリビングに入ると、後ろにいたはずの昴が先にソファに腰を下ろした。
「はぁ、やっぱりソファはいいなぁ。今度一緒に買いに行ってよ」
「うん、いいけど……って違う違う! いろいろ混乱する……」
「その前にご飯食べなよ。まだなんだろ?」
頭は疑問符だらけだったが、空腹には勝てずにコンビニの袋を開けて、中からおでんとサラダを取り出して昴の隣に座る。
「おっ、いい匂い」
「昴くんは? 食べた?」
「んー、まぁ軽くカップ麺」
「昼がお蕎麦で、夜はカップ麺? 麺ばっかりで飽きない?」
「まぁ腹が満たせればいいし」
サラダと少し冷めたおでんの大根を口に運び、徐々にお腹が満たされてくると、疲れで麻痺していた思考回路がようやく働き始めた。
隣に座る昴に目を向ければ、勝手にテレビをつけ、リモコンでチャンネルをパチパチと換えている。
「昴くん、無地以外のTシャツも持ってたんだね」
「当たり前だろ」
「顔はいいのにファッションに無頓着って、もったいないよねぇ……痛っ!」
頭に昴のチョップをお見舞いされ、七香はキッと睨みつけたが、昴は意にも介さずテレビを見ていた。
今のチョップのこと、昴くんは覚えているかなーー二人で出かけたアウトレットのバスの中の出来事を思い出して、胸が熱くなる。
それにしても、彼と会うのはあの温泉で会って以来なのに、まるでつい先週会ったかのような感覚に、七香自身驚いていた。きっと毎日メッセージのやり取りをしていたからかもしれないが、初めて会った時から今日まで、彼との会話で話しにくさを感じたことはなかったのだ。
「ねぇ、もう一度聞くけど、なんでうちを知ってるの? なんか変な犯罪とかに手を出したりしてないでしょうね」
「そんなわけあるか。ちょっとしたツテがあるんだよ。まぁ七香には言わないけど」
「……わかった。それは置いといて、引っ越すなら早紀さんの家の近くにすればいいじゃない。その方がすぐに会いに行けるでしょ?」
「七香、早紀さんがどこに住んでるか知らないだろ。あんな場所、俺が借りられるわけがない」
都内でいくつものヘアーサロンを経営する敏腕社長で、最近は海外展開をしたり、美容グッズのプロデュースをしたりと大忙しなのだと、先日読んだ雑誌に書いてあった。
「本当にすごい人なんだねぇ、早紀さんって」
「そうなんだよ。そんな早紀さんとずっと関係を続けていられるって、俺って恵まれてるよな」
そう言って恥ずかしそうに笑った昴は、先ほど七香にチョップをがましたとは思えないほど、柔らかな笑顔を浮かべている。この顔は、出会った時から全く変わっていないように思えた。
未だに早紀さんを好きにはなれないけど、早紀さんを好きな昴くんは本当に可愛いーー悔しいけど、その笑顔に胸がキュンとする。
突然現れて、自分の気持ちを確認しないまま彼を部屋に入れてしまったが、ちゃんと友だちとしての好意に変わることが出来ていると実感する。
これからは早紀を好きな昴を間近で見ても、きっと傷付くことはないだろう。
「はいはい、|惚気《のろけ》は一人でやってちょうだい。それで……うちの住所を知ったツテがあるのはわかったけど、わざわざ隣に引っ越してきたのはどうして? 毎日メッセージのやり取りはしてたけど、よーく考えたら私たち、会うのはまだ三回目なんだよ」
「別に深い意味はないけど、強いて言うなら、近くに知り合いがいたら便利だなぁと思って」
「私は便利屋じゃないんですけどー」
口を尖らせて文句を言うと、昴は何やら意味ありげな笑顔を七香に向ける。
「あのさぁ、実はガス会社に連絡忘れてて、今日はお風呂が使えないんだ。だから……」
「風呂を貸してくれってこと? っていうか、そんな大事なことを忘れていたの?」
「いろいろ忙しくて」
「銭湯でも探したら?」
「シャワーだけでいいから、貸してくれない?」
「……仕方ないなぁ。今日だけだからね。明日はちゃんとガス会社に連絡するんだよ、わかった?」
「もちろん。あー助かった」
「私はご飯食べちゃうから、先に入ってもいいよ。浴槽に入りたかったら自動ボタン押してね」
「じゃあ部屋に戻って下着持ってくる。やっぱり持つべきものは友だちだな。隣の部屋が空き部屋で良かった」
昴は勢いよく七香の部屋を飛び出した。彼のなかでも友だちとして認識されていることがわかり、嬉しく感じる。
ようやく私たちの新しいスタートなのかなーー楽しそうな未来を想像し、七香は思わずクスッと笑った。
#片思い