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第7話:歩いた先に
マシロ・カナは夢を見た。
雪の中、誰かの声が風に溶ける夢。
「もう、提出なんてしないで」
「お願い、記憶だけは消さないで」
目覚めたとき、外はまだ灰色だった。
その朝、カナと父・タカユキは、ソウタを母・ユミに託して小屋を出た。
「山の端に、誰かいた。昨日、影が動いた」
そう言ったのはルークだった。怯えたように、けれど確かに。
風の中、ライオン像が遠くに見えた。
昨日よりも傾き、石の首元に新たな崩れが生じていた。
片目はすでに光を失っていたが、
残った目だけが、まるで「行くな」と訴えるように、まばたきをするように点滅した。
けれど、二人は歩き出した。
山の稜線を越えた先に、古い痕跡があった。
雪に半ば埋もれた、別の小屋の残骸。
木材が黒く焦げ、壁には数字が刻まれていた。
“第五区画、No.2”
その横に、砕けたドローンが転がっていた。
壊れたセンサー。歪んだアンテナ。何も機能していない。
けれど、時折、「命……確認……」と、かすれた声が漏れた。
奥に進むと、何かがいた。
雪の中、人の形をした具現体。
かつて提出された“記憶”か、“願い”の形か。
それは、まるで少女のようだった。
薄衣をまとい、顔は曇っていて、目が空白。
けれど、近づいたカナに向かって、彼女自身の声で語りかけた。
「ねえ、もうやめよう。生きてても、誰も戻ってこないよ」
「カナ……わたし、カナだよ」
カナは一歩後ずさった。
「やめて……!」
影が揺れた。
風が舞い、影のなかから別の声が漏れた。
「うう……いたい……やだ……提出しないで……」
「ぼくの目、見て……寒いよ……寒い……」
次々と、過去の犠牲者たちの断末魔が、幻のように響いた。
父が叫ぶ。「カナ、戻れ!」
カナの袖を掴んでいた影は、風とともに溶けた。
そして、雪の上に小さな光がひとつ、落ちた。
それは、誰かがここに“いた”ことを示すような、淡く瞬く記憶のかけらだった。
その夜。
テレビが何も映さなくなった。
ただ、時折ノイズ混じりの声が流れた。
「……繰り返すな」
「……この山は、すでに終わっている」
「……命はもう、残っていない」
ライオン像は、完全に沈黙していた。
目はすべて消灯し、雪に埋もれた口元だけが、かすかに動いたように見えた。
だが誰も、その言葉を聞くことはできなかった。
カナは、小屋に戻ってソウタを抱きしめた。
「ここから出よう。絶対に……家族で、生きて」
その声は、かつて風に溶けた誰かの願いと、重なっていた。