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しろさわ
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ふいに、康二が思い出したように言った。
「めめ、もうすぐ帰ってくるな」
その声が、ほんの少しだけ違って聞こえた。
気のせいかもしれない。
けれど、その目は少し潤んでいるように見えた。泣くほどではない。
ただ、何かを思い出してしまった人の目だった。
「そうだね。ライブに間に合いそうで、本当によかった。やっぱり九人揃うの、嬉しいよね」
「うん…」
康二はカップの中を見つめた。
「俺もな、すっごく嬉しい。嬉しいんやけど……直接会うの久々すぎて、ちょっと緊張するなぁ」
そう言いながら、指をもじもじさせている。
その姿を見ているうちに、ラウールの胸のどこかに、小さな灯りがともった。
「えっと…いつからやったっけ?」
スマホの画面を指で追っていると、ふいに声がした。
「ねぇ、康二くん。チョコ、もうひとブロック、どう?」
「お、おん。そんなに俺もらって、ええの?」
スマホから顔を上げた、そのときだった。
ラウールはもう、チョコレートの端を口にくわえていた。
「え、なになに? どゆこと?」
「ん」
ラウールは笑った。
いつもの、少し生意気で、何を考えているのかわからない笑い方だった。
「俺の口から食べてみてよ。ほら」
「なんでやねん」
康二が呆れたように笑っても、ラウールは引かなかった。
むしろ、逃げ道を塞ぐように、チョコレートをくわえたまま顔を寄せる。
「……ほな、いくで?」
康二が冗談半分に身を乗り出した、その瞬間だった。
ラウールは待っていたように距離を詰めた。
唇が触れる。
チョコレートを分け合うだけのつもりだった。
けれど、一度触れた唇を、ラウールはすぐには離さなかった。
康二が驚いて息を呑む。
そのわずかな隙に、もう一度、今度は確かめるように唇を重ねた。
甘い。
ミルクチョコレートの甘さが、どちらのものなのかもわからないまま、口の中でゆっくりと溶けていく。
康二の身体が、ほんの少し強張った。
それでも、突き放されることはなかった。
ラウールはそのことに甘えるように、もう一度だけ唇を押しつけた。
もっと近づきたい。
もう少しだけ、この人の中に自分の居場所があるのか知りたい。
そんな気持ちが、考えるより先に身体を動かしていた。
やがて唇を離すと、雨の音が戻ってきた。
康二は目を見開いたまま、すぐには何も言わなかった。
ラウールは、急に自分のしたことが怖くなった。
勢いに任せてしまった。
冗談にして笑い飛ばせる範囲を、とうに越えている。
今さら謝ったところで、なかったことにはできない。
「……ごめん」
口にした途端、後悔が押し寄せた。
けれど、康二は怒っていなかった。
戸惑ったようにこちらを見つめているだけだった。
嫌なら、きっとすぐに離れていたはずだ。
そんなふうに考えてしまう自分が、ひどく浅ましく思えた。
それでも、胸の奥に小さな期待が灯るのを止められなかった。
もしかしたら。
ほんの少しでも、同じ気持ちだったりするのだろうか。
「……なんやねん、急に」
ようやく康二が口を開いた。
いつもの調子に戻そうとしているのがわかる声だった。
けれど、語尾にはかすかな戸惑いが残っていた。
ラウールは答えられなかった。
本当は、急になんかじゃない。
ずっとこうしたかった。
チョコレートを口実にしたのも、冗談めかして誘ったのも、拒まれたときに笑ってごまかせるようにするためだった。
けれど、そんなことを言えるはずもなかった。
「……なんでもない」
そう言って笑った自分の顔が、うまく笑えているのかもわからなかった。
康二は何かを確かめるように、指先で唇に触れた。
どうして嫌じゃなかったんやろう。
浮かんだ疑問に、自分自身がいちばん驚いていた。
ラウールのことを、こんなふうに意識したことはなかったはずだ。
いつもなら、少し強引な冗談だと笑って済ませられたはずなのに。
今は、唇に触れた指先さえ、どう扱えばいいのかわからない。
嫌ではなかった。
その事実が、かえって康二を困らせた。
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。
康二は視線を落とし、残っていたコーヒーをひと口飲んだ。
すっかり冷めた苦みが、舌に広がった。
ラウールも、それ以上は何も言わなかった。
手を伸ばせば届く距離にいる。
けれど、もう一度触れる勇気はなかった。
康二が拒まなかったことを、都合よく受け取ってしまいたい自分がいる。
けれど、もしそれがただの戸惑いだったら。次に手を伸ばしたとき、今度こそ本当に離れていってしまったら…。
細かな霧雨が、再び降り始めていた。
風が吹き抜け、濡れた空気が肌を冷やす。
康二はカップを置くと、何気なく両手を擦り合わせた。
そんな姿が視界の端に入ると、ラウールは何も言わず、自分の上着を脱いだ。
「ええって。らう、寒いやろ?」
「俺は平気」
「でも……」
「いいから」
康二の肩に上着をかける。
そのとき、指先がほんの少しだけ康二の首筋に触れた。
ラウールはすぐに手を引いた。
たったそれだけのことで、心臓がうるさくなる。
康二は気づいていないようだった
「ありがと」
そう言って、上着の襟元を両手で寄せる。
その姿を見て、ラウールは微笑んだ。
「……うん」
それだけだった。
本当は、もっと近くにいたい。
もう一度、キスしたい。
好きだと伝えてしまいたい…。
いつもなら、こんなふうに迷ったりしない。
思ったことは口にするし、欲しいものには迷わず手を伸ばす。
誰かの顔色をうかがうより、自分の気持ちに正直でいることを選ぶ。
ラウールは、今までずっとそうしてきた。
なのに今は、たったひとことを口にすることさえためらってしまう。
もし、困らせたら。
もし、今までどおりには笑ってくれなくなったら。
そんなことを考えている自分が、ひどく臆病に思えた。
康二もいつものラウールらしくないなと感じていた。
たった一瞬のキスで変わってしまった世界で、ラウールはこんな顔をするんだ、と思った。
いつだって自信たっぷりで、こっちが戸惑うくらい遠慮なく踏み込んでくるくせに。
今はまるで、自分の返事ひとつで傷ついてしまうことを恐れているみたいだった。
正直、どうしたらいいのかわからなかった。
ラウールのことを、そんなふうに意識したことはなかった。
少なくとも、こんな顔をさせる自分を想像したことはない。
いつもどおりに冗談でも言って、笑わせてやればいい。
そう思うのに、口を開くことができなかった。
ただ、目の前のラウールが、いつもより少し小さく見えた。
さっきまでの霧雨は、いつのまにか本降りに変わろうと、雨粒をぽたりぽたりと、音を立てて落とすようになっていた。
「そろそろ行こか」
康二が立ち上がる。
ラウールも傘を開いた。
屋上からエレベーターへ向かうほんの短い道なのに、雨は思ったより冷たかった。
ラウールは何も言わず、傘を康二のほうへ傾けた。
康二の肩は、すっぽりと傘の下に入っている。
その代わり、ラウールの右肩には雨粒が落ちていた。
「そっち、濡れてるで」
康二が気づいて、傘を押し戻そうとする。
けれどラウールは笑って、柄を握り直した。
「大丈夫だよ」
「でも……」
「濡れたら風邪をひく。ドラマの撮影、まだ終わってないでしょ?」
それだけ言って、また傘を傾ける。
康二はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……変なの」
そう言いながら、今度は傘を戻そうとはしなかった。
二人の歩幅が自然に揃う。
ラウールの肩は少しずつ濡れていく。
けれど、そのことを気にしている様子はない。
康二は隣を歩きながら、時々、傘の柄を握るラウールの手を見た。
そして何かを言いかけて、やめる。
まだ、自分の気持ちが何なのかはわからない。
さっきのキスを思い出す。
思い出すたびに胸の奥が少しだけ騒ぐ。
でも、それを「好き」と呼んでいいのかは、まだわからない。
だから今は、ただ黙って隣を歩いた。
ラウールが傘を傾けてくれていることも、濡れている肩も、何も言わずにそのままにして。
やがてエレベーターの前に着くと、 ラウールが傘を閉じた。
その瞬間、二人のあいだにほんの少しだけ距離ができた。
さっきまで傘の中にあった、小さな二人だけの空間が消えてしまう。
康二はそれを惜しむように、一度だけ空を見上げた。
「……雨、もうちょっと降っててもええな」
ぽつりと、そう言った。
ラウールは何も答えなかった。
ただ、少しだけ笑った。
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