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優里と会った夜から数日後のことだった。
朝の日課である掃除を終わらせ、女子トイレに立ち寄った、そんな始業までの僅かな時間だった。
「何か今日南からの事務の人来てるって」
「あ、いつも美人だって男たちが噂してる人でしょ~。咲山さんだよね」
真衣香は、そんな会話を耳にした。
南とは本社から一番近い営業所のことだ。
チラリとその声の方を見れば営業部の女性二人と目が合い、真衣香は軽く会釈した。二人もそれに応え軽い会釈で返してくれる。
そのまま鏡に視線を戻し少しはねた前髪を確認し整えながら、何となく彼女たちの会話を頭の中で繰り返してみた。
(咲山さん……そういえば、入社したときの研修で資料の配付してた人だっけ。たまに総務にも来てくれことあるよね)
けれど総務に顔を出してくれたからと言って、特に深い会話を交わしたことはない。
大体は八木や杉田と言葉を交わしているのを横目に見ているくらいで……。
そんな微かな印象の中でも思い返すと、確かに目を引く綺麗な人だったと真衣香も記憶していた。
なんてことない。記憶の端の綺麗な顔を思い出しながらトイレを出る。
すると、すぐの角で先ほどの二人がまだ話していた。
(さっき挨拶したしなぁ)
そう思い、そのまま通り過ぎようとした真衣香の耳に聞こえた声。
「咲山さんってさ、まだ坪井君とつきあってるのかなぁ。いいよねぇ、あんなイケメン彼氏……、しかも若い」
「いや、ないよ、多分。だって立花さんと付き合ってるとかって噂になってるじゃん」
「え!?そ、そうなの?それってさっきトイレにいた人だよね?」
聞こえてきた情報に思わず立ち止まってしまった真衣香。
声の主の彼女たちと目が合い何となく気まずい空気が流れる。
坪井とのことは、以前の小野原との会話で既に社内では噂の的になっているのだが……真衣香への風当たりは今のところ坪井の心配をよそに、深刻ではなかった。
なぜなら攻撃的な態度を取られるよりも前に、坪井に好意を持っていそうな人たちは期待に満ちた表情を見せている。
『あの子でもいけたんなら私も頑張ればいけるじゃん』
……要はそんな表情だ。
いいのか悪いのか。
真衣香は運良く彼女になれてしまった存在。この恋を信じていこうとしているのは自分。
周りにどう映るのかは、また別の話なのだろう。
真衣香が考え込んでいると、相手が恐らく何か声にしようと口を開いた。
それを見た、瞬間。
真衣香は強張っていきそうな表情、それを阻止するため顔に力を込め、ニコリと笑顔を作りその場を足早に立ち去ってしまう。
立ち去ってしまった。
精一杯、早足で進みながら思うこと。
なぜ、何も聞かず逃げたんだろう。
なぜ、それ以上を聞きたくないと思ったのだろう。
わからない。
わからないけれど。
『自分という人間が存在しない』坪井の過去を怖いと思ったことは、確かだった。
(坪井くんに彼女くらい、そりゃいたでしょ。それこそ何人も。当たり前じゃん、元々わかってたじゃん)
奇跡は、経験をしてしまえば奇跡ではなくなってしまうんだろうか。
なんとも欲深い。