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まさしく噂をすれば、だった。ゾムは自分の昼食らしきものを抱え、一直線にシャオロンへ走ってくる。
「シャオローン!お昼ご飯一緒に食べよー!」
にぱっと笑うその姿は、初対面の相手にする人見知りとは遠くかけ離れていた。
「シャオロンちゃうやろー、先生をつけろぉ。せんせーをぉ!」
呆れ顔をしながら言う。だが彼は、フードの奥で緑の瞳が一瞬きょとんと瞬いて、それからくしゃっと笑った。
「せんせー?」
わざとらしく首を傾げてみせる。明らかに面白がっている顔だった。
「ちゃんと言わんのかい!、」
「えー、でもシャオロンはシャオロンやん。先生ってなんか他人行儀で嫌や。」
そう言いながらもう隣に椅子を引っ張ってきて座っている。距離が近い。肩が触れるか触れないかの位置に陣取って、コンビニの袋からおにぎりを取り出した。
「なぁ、今日の放課後野球部あるん?俺も見に行ってええ?」
ゾムの声は教師と生徒のそれというより、もっと幼い頃からの付き合いがあるかのような親しみを帯びていた。周囲の生徒たちがちらちらとこちらを窺っているのが見えたが、ゾム本人はまるで気にしていない。というより、視界に入っていないようだった。
「見に来てもええけど、あんま近寄りすぎんなよ。長居するとオーバードーズ起こしてまうからな。」
と言いながらも当の本人は普通にゾムの隣を歩く。その言葉に、おにぎりの包装を剥く手がほんの一瞬だけ止まった。けれどすぐに何事もなかったかのように、にかっとキザ歯を覗かせた。
「あはは、大丈夫やって。俺ドラッグやけど、ちゃんと制御できるし。」
嘘か本当かわからない軽い調子で言いながら、ずいっとシャオロンの方に肩を寄せた。廊下を並んで歩く二人の影が、リノリウムの床に重なって伸びている。
「ちょっとくらい近くにおっても平気やって。」
ゾムがシャオロンとの距離を詰めるたび、ふわりと甘いような、どこか安心するような匂いが漂った。ドラッグ特有の、傍にいるだけで身体の強張りがほどけるような気配。本人が意図してやっているのか、それとも無自覚なのか、その境目は曖昧だった。すれ違う生徒の何人かがゾムを見て小さく会釈する。希少な存在への畏敬と、少しばかりの羨望が混じった視線だった。シャオロンが何も言わないのをいいことに、さらに半歩分にじり寄って腕を軽く小突いた。
「な、ええやんな?約束。」
「距離を保てればの話な。」
ゾムの真隣にはさすがに座らず人席開けて荷物を置いて座る。ゾムは一席空いたその隙間を、じっと見つめた。翡翠色の目が細くなる。
「……。」
何か言いたげに口を開きかけて、けれど結局おとなしくその席に収まった。代わりに上半身だけをぐいっと横に倒して、空いた一席分の空白を埋めるように顔を近づけた。
「ここからでもシャオロンの顔ちゃんと見えるから別にええけど。」
ゾムは満足そうに頷いてから、ツナマヨのおにぎりにかぶりついた。頬を膨らませてもぐもぐと咀嚼する姿は年相応の少年そのもので、さっきまでの計算高い空気はどこかに消えている。屋上へ続く階段の踊り場、昼休みの喧騒から少し外れたこの場所には、二人分の呼吸音と遠い笑い声だけが響いていた。飲み込んでから、ふと思い出したように。
「あ、そういやシャオロン。午後の物理、俺のクラスやんな。楽しみにしてるわ。」
前髪の隙間から覗く目元が、やけに嬉しそうな弧を描いていた。そうだっけ?と首を傾げながらメモ帳を取り出して言う。
「んーと、そうやな、今日は実験するで、」
メモ帳をなおし荷物から弁当を取り出す。するとゾムは弁当箱が出てきた瞬間、身を乗り出すようにして中身を覗き込んだ。
「うわ、めっちゃ美味そうやん。」
けーんちゃさぶ
309
卵焼きやら唐揚げやらが丁寧に詰められたそれを見て、目を丸くする。
「シャオロンって料理できんの?すご。なぁ一個ちょうだい。」
手を合わせて拝むようなポーズをとるゾムだったが、「一個」と言いながらも指は二本立っていた。図々しさを隠す気がまるでない。階下から吹き上がってきた風がシャオロンの茶髪をふわりと揺らし、ゾムはそれをじいっと目で追った。手はまだ合わせたまま、犬のように……いや、猫にねだる子犬のように首を少し傾けている。
「はぁ…ほんまお前好きやなぁ俺の弁当のおかず。」
と言いながら自分が口をつける前に箸でゾムの口に運ぶ。差し出された箸に、何の躊躇いもなくかぶりつく。もぐ、と一口。途端に顔がほころんだ。
「んっ、うっま。なにこれ天才ちゃう?」
口元についた米粒を舌で舐めとりながら、もう完全に次のおかずを待つ体勢に入っている。「間接キス」、という概念がこの少年の辞書に存在しているのかは甚だ疑わしかった。あるいは存在した上で気にしていないのか。どちらにせよ、その無防備さは無邪気と呼ぶにはいささか際どいものがあった。ふと、シャオロンの弁当を食べている自分と、まだ手をつけていないシャオロンを交互に見て。
「……あ。」
ばつが悪そうに目を逸らす。が、身体は離れない。
「ご、ごめん。先に食べてくれてよかったのに。つい。」
謝罪の言葉とは裏腹に、声色にはまるで反省の色がなかった。フードを深く被り直して顔を隠そうとしているが、耳の先がわずかに赤い。照れているのか、それとも別の何かなのか。ゾムは膝を抱えて小さくなりながらも、視線だけはちらちらとシャオロンの手元を追い続けていた。
「別にええよ、…お前が美味しそうに食べてるだけで俺は安心するし。…最近の奴らはゼリー飲料で済ませるアホがおるからなぁ。」
パクッと自分も唐揚げを食べる。ゾムに食べさせた箸とおなじ箸で、……シャオロンと同じ箸で同じ唐揚げを口に運ぶその仕草を、まばたきも忘れて見ていた。ごくり、と喉が鳴る。それが食事の余韻なのか別の理由なのか、本人にもわからなかった。
「……シャオロンってさ。」
ぽつりと、声のトーンが少しだけ落ちた。
「そういうとこ、ずるいわ。」
ゾムは自分の膝に顎を乗せて、前を向いたまま動かなくなった。耳だけがぴくりと動いて、隣で咀嚼するシャオロンの音を拾っている。風の向きが変わって、階下のグラウンドからホイッスルの鋭い音がひとつ上がった。……
しばらくの沈黙のあと、ぼそりと。
「俺もゼリーで済ませてた時期あったけどな。ルミに会ってからちゃんとしたもん食うようになった……」
「…シャオロンがおらんかったら、たぶん今もずっとあれやったと思う。(笑)」
ふ、と笑った息が前髪を揺らした。その笑みがどこまで本気で、どこからが芝居なのか。翠の目の奥は深すぎて読めなかった。黄色瞳がゾムを鋭い目で見つめる。
「…俺の前でそれは許さんからな?」
びくっと肩が跳ねた。顔を上げると、フードがずれてミルクティー色の髪が零れ落ちる。緑の虹彩がシャオロンを真っ直ぐに捉えて、それからふにゃっと崩れた。
「……おん。」
たった一音の返事だったのに、その声には妙な重さがこもっていた。約束を交わす子供のような真剣さと、鎖をかけられた獣のような従順さが同居する、奇妙な響き。ゾムはシャオロンから目を離さないまま、自分の手で自分のパーカーの裾をぎゅっと握り込んでいた。指先が白くなるほど強く。
「ほな、ずっと見張っとってな。」
ずるい、と言ったのはどの口だったか。今度はゾムのほうがよほどずるい顔をしていた。唇の端を持ち上げて、けれど目だけは笑っていなかった。
「俺がちゃんと飯食ってるか、毎日確認してくれなあかんで。」
昼休み終了五分前を告げる予鈴が、壁の向こうからくぐもって聞こえた。ゾムは動く気配を見せない。まるでこの階段に根が生えたかのように、シャオロンのすぐ傍から離れようとしなかった。
「ほら、はよ動かんかい。次、数Aやろ、」
むう、と唇を尖らせた。不満が顔面にそのまま貼り付いている。
「数学とかどうでもええねんけど……。」
それでもシャオロンに促されると、のろのろと立ち上がる。制服のズボンについた埃を払いもせず、パーカーを羽織り直しながら。
「ほなシャオロンもはよ実験の準備しいや。放課後の野球、絶対見に行くからな。」
念を押すように指を突きつけて、ゾムは階段を駆け下りていった。足音が軽やかに遠ざかるのを聞いていると、ふいに静けさが戻ってきた。弁当の蓋を閉めようとしたシャオロンの指先に、かすかな温もりの残滓がまだ纏わりついていた。それはゾムと並んで座っていた時間の名残のように、じんわりと肌の内側に染みている。
ドラッグの傍は心地よい。それは周知の事実で、だからこそ人々は彼らに近づきたがり、そして離れたがる。けれどゾムという少年に関しては、その心地よさの輪郭がどうにも掴みづらい。懐いているようでいて、何かもっと別のことを企んでいるような。あるいは本人すら気づいていない何かが、あの翡翠の目の底で静かに根を張っているような。
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