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星々の鏤められた南天を削るが如く隊列を組む鋸岳と北天を突き刺すが如く聳える槍連峰の間には、東西の要衝たる交易の街狭隘地があった。
その大通りを、革で作られた人の形に宿る魔性訳す者が急いでいる。油燈も蝋燭も持ってきていないが、慌てた様子で先導を務める街の守護者である歩哨の男が松明を携えて、暗い夜道を照らしている。
ケリディエルが家を出る前に、「一体このような夜更けに何事か」と問うたが、「とにかく詰め所に来てくれ」とだけ言われた次第だった。
やって来たのはミダの街を囲む堅牢なる城壁の一角、街の眼にして槍である歩哨団の詰め所のさらに一角の部屋だ。ケリディエルがそこへ来たのは初めてだったが、罪人を一時的に拘留する時などに使われている部屋だということは知っていた。
呼び出しに来た歩哨に促されて中に入ると二人の人物がケリディエルを待っていた。
一人は歩哨団の隊長の一人、街の勝利という名の壮年の男だ。歩哨たちの中でも誰も彼もを見下ろすほどに一際背が高く、威圧的な体格を誇っているが、顔立ちは柔和で落ち着いた雰囲気の男だ。感情的になっているところをケリディエルが見たことはない。
もう一人はまだ年若い少年、あるいは青年だ。十を越えてはいるが二十には満たない。とは言っても、街の若者も早ければこの年頃から歩哨団に入る。日に焼けた肌に髪、小柄だが引き締まった体。鹿革の衣。この街では見かけないなりをしている。
青年は後ろ手に縄で縛られて小部屋の奥に、エクセタスはまだ鞘に納まっている剣を携え、扉の近くに座って睨み合っていた。が、異様な風体の魔性が入って来てからは青年の視線はケリディエルに突き刺さっていた。
「エクセタスさん。一体どうしたっていうんだ? 伝令が血相を変えていたぞ」
「密偵ですよ。先生。悪辣なる苔塗れが街に偵察に来たのです」
ケリディエルは記憶をたどる。苔塗れというのはバゼール岳に住まうという山歩き族に対する蔑称だ。奉じる神のいない蛮族だとこの街の人間は忌み嫌っている。
「へえ、シムハ族か。初めて見るね。確か長らくこの街に降りて来ていないという話だが」
「そうです。二十年前くらいでしょうか。侵入してきたこいつらをこっぴどく追い返してやったんです。それ以来ずっと山に引き籠っていたはずですが、野心の灯は消えていなかったらしい」
見てきたように語るエクセタスだが、まだ歩哨団にも入っていない少年の頃の出来事だ。
「それで、僕が呼ばれたということは……」
「ええ、言葉が通じません。こいつらの先祖は南の海の海賊だったらしいですから。内輪揉めで逃げてきてバゼール岳に住み着きやがったんです。こいつから情報を聞き出してください」
「情報とは?」
「何を調べていたのか。何を企てているのか」
ケリディエルはエクセタスと蛮族の青年の中間の辺りまで近づく。青年は椅子から立ち上がろうとするがエクセタスが威嚇するように剣の鞘で床を突くと再び椅子に浅く座る。そしてケリディエルは警戒心を解くように微笑む。
「はじめまして。ケリディエルというものだ。君の名前を聞いても良いかな?」
[一体何なんだ? お前は]
マシチナの言語だが訛りが強い。ケリディエルは呪文を唱え、今聞いた言葉を精査する。
[はじめまして。ケリディエルというものだ。君の名前を聞いても良いかな?]
[なんだ? 言葉を話せんのか。俺ぁ霊岩だ。それで、お前は何なんだ? お前みたいなのは見たことがない]
[奇遇だね。僕も僕みたいなのは見たことがない。が、姿が違っても言葉は通じる]
[言葉が分かったところで、あのおっさんが何を怒ってるのかは分かりそうもないがね。どうして俺ぁこんな所に閉じ込められにゃあならんのだ?]
[カタコポくん。君には密偵の疑いがかかっている。この街を密かに調べに来たのではないか、と]
[はあ? 何だって俺がそんなことをせにゃならんのだ?]
ケリディエルはカタコポの視線がエクセタスの方に向いたことに気づくのが遅れた。振り向くとほぼ同時にエクセタスの剣の鞘がカタコポの二の腕に打ち付けられる。嗚咽混じりの呻き声が小部屋に響く。ケリディエルはすぐに割って入り、エクセタスを押しのける。
「何をしてるんだ!? 何のつもりだ、エクセタスさん」
「反抗的な態度は見れば分かりますよ。先生。舐められれば攻めるに易しと勘違いさせてしまいます。それと、私は通訳をお願いしたのです。尋問は私の役目です」
「分かったよ。分かったから下がってくれ。椅子に座ってくれ」
カタコポはもはや殺意の籠った眼差しをエクセタスに向けている。
「それで?」とエクセタスが尋ねる。「密偵なのか、そうじゃないのか?」
「まだ挨拶をしただけです。今、聞きますよ」[カタコポ。君は密偵じゃないならこんな夜更けに何をしに来たんだ?]
[担い商いさ。見習いだけどな。シムハ族は南から来る連中と交易してるんだ。毛皮とか、染料とか。だけど見習いじゃあいつまで経っても銭が貯まらないからな。北なら交易していないし、高く売ったり、珍しい何かを買えやしないかって思って来たんだ。それがよお、この糞爺のせいで]
カタコポが舌打ちをし、エクセタスがもう一度打とうと立ち上がろうとするのでケリディエルは押し留めた。
「エクセタスさん。カタコポは行商人見習いだそうだ。新たな販路を開こうとしたようだ」
「カタコポ?」
「彼の名前だよ」
「珍妙な名ですね。こいつの言い分が本当だとなぜ分かります? 手ぶらで行商に来る奴がいますか?」
エクセタスは再びカタコポに向き直る。
[商品はどうしたんだ?]
[こっちが訊きたいね。俺の品をどうしたんだ!?]とカタコポは声を荒げる。
「歩哨に預けたと言ってるよ」
「やはり苔塗れは嘘しかつきませんね」エクセタスは剣を鞘から抜き放つ。「私の部下が品を盗んだと言いたいようです」
「待ってくれ。部下に話は聞いたのか?」
「聞くまでもありませんよ。それとも先生も私の部下を疑うのですか? 苔塗れではなく、我々を?」
[おいおいおい。俺を殺す気なのかよ]
ケリディエルはカタコポの盾になるようにエクセタスとの間に立ちはだかる。
「聞くまでもないって言ったか? ならばなぜ僕を呼んだ? 僕が何のためにこの街で塾を開いていると思ってるんだ? あらゆる言葉をこの街の者たちに教える理由は? 言葉の壁で生まれる争いをこの世から失くすためだ! 言葉が違うだけで無残な殺し合いを演じてきた人間を憐れんでのことさ!」
エクセタスはケリディエルの言葉を嘲笑する。
「言葉の違い? そんなささやかなものじゃあありませんよ。魂から違うのです。こいつらや異教徒、異国の連中とはね」
「いいや、同じだよ」ケリディエルは何度なくこのような問答を繰り返してきたのだった。「だけど、どれほど同じでも言葉が通じない相手に人間はどこまでも残酷になれる。当然さ。必死の命乞いも豚の鳴き声と区別が付かないんじゃあね。それ以上に残酷な人間もいるが、助けてと言われれば大抵は良心が疼き、敵とて逡巡するものだ。そのささやかな差の積み重ねが、同じ言葉を話す者たちとの日常へと繋がるんだ。耳を傾けてくれ、エクセタスさん。それが最初の一歩だ」
「耳なら傾けたつもりですがね。でなけりゃ何を企んでいるのか知りようがない」
「なら次は頭から疑うのをやめてくれ」
「言葉が通じればこそ騙せるというものですよ、先生。言葉の通じない者に騙されることはありませんからね」
「ふざけた屁理屈を言うな。彼は言葉の通じない君たちに欺かれていると思っているんだ」
その時、突然後ろから突き飛ばされ、ケリディエルは勢い余ってエクセタスを押し倒してしまう。
気が付いた時にはカタコポはエクセタスの剣を奪い、逆に首元に押し当てていた。
[殺される前に殺してやるよ]
「苔塗れめ、よくも。やはり魂の穢れた魔性の血筋ですね」エクセタスが声を絞り出す。
ケリディエルはカタコポを落ち着かせるようにしっかりと語り掛ける。
[やめてくれ。カタコポ。密偵の疑いを晴らすべきだ。誰も君の死を望んではいない]
[こいつがそう言ったのか? ケリディエルさん。通訳してくれよ、こいつ自身の言葉をよ]
ケリディエルは床に押し付けられたエクセタスに向き直る。
「エクセタス。落ち着いてくれ。それは彼を密偵だと決めつけて打った罰だと思え。改めて対等に、いや、容疑者ではあるが、この街の市民と同じように扱えばいいんだ。彼の言い分に耳を傾けて、公正に判断すべきだ」
喉に刃を添えられながらもエクセタスは声を絞り出す。「糞喰らえと伝えてください」
ケリディエルは元々大きな変化は出せないが、表情に出ないようにして静かに頷く。
[彼は後悔している、カタコポ。死にたくない、と。そう言っている。僕からも頼む。帰れるように保証する。だから剣を僕に預けてくれ]
カタコポは刃を首元に押し当てながらエクセタスを引きずり、扉へと近づき、外の様子を窺う。まだ誰も異変には気づいていないようだ。
カタコポはエクセタスからケリディエルに視線を移し、意味深な笑みを浮かべる。
「あんたの優しさに免じて助けてやるよ、ケリディエル先生。でも、嘘つきは通訳に向かないと思うぜ」
そう言い残してカタコポは部屋を静かに出て行った。