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私達にも、二度と帰ってこない人が居る。
「もう春ですか」
家の奥、和室の方からどこか間延びした声が響いてきた。穏やかで落ち着いた声色。縁側の窓を開けている為に、風が廊下を吹き抜けている。お茶を丁度淹れ終わったので、それをお盆に乗せて縁側へ。案の定、兄は縁側に座って外を眺めていた。眺める、というよりも、風を感じていた、というのが表現として正しいのだろうか。猫が膝の上に乗っている。そういえば兄は昔から動物に好かれる体質だった。隣に腰を下ろし、お盆を置く。
「そうだよ、もうじき桜も咲く。またお花見したいね」
「桜前線の調子は」
「順調に南の方から咲いていっているみたいだよ。今週にはこっちの方も咲くって、ニュースの人が言ってた」
「それは良かった」
お茶を手に取り、一口。桜の風味を感じる。ご近所様がお裾分けをしてくれた茶葉を使ったのだが、香り高い桜の風味が美味しい。けれども横に居る兄はお茶に手を付けず、空を見上げていた。淡い青色をした、透き通った空を。
「あの人が居なくなってから、何度目の春ですかね」
「79年」
「もうそんなに」
他愛もない話。その間にも、風は巡る。季節は回る。年月が流れていく。
──私達には帰る場所がある。それで十分だろう。
まだ幼かった私には、その言葉の意味が理解できなかった。夕日を背で遮り、地面に長い影を落としながら、あの人は痛いくらいまっすぐな視線を向けていた。夏の暑い風が流れる中、軍帽の下から覗く鋭い目で、ただ真剣に何かを見つめていた。怖いくらいに鮮明に思い出せるあの人の声を聞いたのは、もう80年も前の話だ。あの人は何を見ていたのだろう。過去だろうか、未来だろうか。何を思って地面を踏みしめ、空を見上げ、海を眺めていたのだろう。
「令和」
考え込んでいると不意に声をかけられた。見上げると、兄が自分の顔を覗き込むようにして居た。何もかもを見透かすような目。
「また、今年も待ちましょうね。あの人が言ったのですよ、絶対に帰って来ると。あの人は自分で決めた約束事を破るような人じゃありませんから」
ず、と熱いお茶を啜る音。私は兄のこういう楽観的な部分が羨ましく思えたりする。
どこに行っても私が息苦しいのは変わらない。心を何かに鷲掴みにされたように苦しくて、何をしていても付き纏ってくる。忘れられない鎖を引きずっている。だからきっと私は彼に会いたいのだろう。戻ってきてほしいと願うのだろう。私を縛る鎖から自由になるために。
春の風は暖かい。けれど時折冬の名残のように冷たさを運んでくる。
「桜、咲くと良いね」
桜の花びらと共に帰ってきてくれたら良いのにね。
心に春が訪れなくなった私は、今を生きる兄にその言葉を続けることは出来なかった。