コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「ここです」
と悠里が鍵を開ける。
ここです、とか言って、大家さんはわかってるだろうが、と思いながら、七海はみんなと一緒に開けられた部屋を覗き込んだ。
がらんとした広めのワンルームだ。
悠里が先に入り、電気をつける。
「ここが……ユーレイ部屋です」
と言う悠里の目は泳いでいた。
何処に霊がいるのかわからないからだろう。
だが、自分と後藤の視線は一点を見つめていた。
造り付けらしい大きな木製のクローゼットの前に白い人影のようなものが見えていたからだ。
おかしい。
俺に霊感などないはずなのにっ。
そういえば、学生時代、誰でも霊が見える場所というのがあって、肝試しの名所として、有名だった。
ここはたぶん、そんな感じに誰でも見える場所なのではっ!?
ここで見えないとか、お前、どんだけ鈍いんだっ、と七海は衝撃を受ける。
「あー、よかった。
あの霊、みんなに見えてるんだね」
七海と後藤の反応に、ホッとしたように北原が言った。
「悠里ちゃんが全然違うとこを見て、ここに霊がいますって言ったりするから。
あれは僕にしか見えない罪の意識なのかなあとか思ってたよ」
ありがとう、ありがとう、と北原は何故か全員に四千円ずつくれようとする。
何故、四千円。
そして、そこの店子はすでにその分、割り引かれていますよ、と思いながら、七海は四千円を北原に返そうとしたが、固辞される。
「じゃ、じゃあ、この金でみんなでまた呑みましょう」
と青ざめながら、七海がまとめる。
ちなみに、青ざめていたのは、七海だけではない。
北原を除く全員だ。
みんな、思っていたからだ。
――僕にしか見えない罪の意識ってなにっ!?
ここで一体、なにがっ!?
と。
だが、七海だけは、違うことでも青ざめていた。
そういえば、龍之介さん。
いつの間にか、悠里ちゃんとか呼んでますが。
俺でさえ呼べていないのに。
龍之介さん。
いろんな意味で怖い人だ……と七海は怯える。
そのあと、解散になったが。
七海は、この部屋を出るのが一番最後になるよう、ちょっと遅れて玄関に向かった。
靴を履きながら言う。
「おい、ユーレイ怖かったら、うちに来てもいいんだぞ」
「いえいえ。
大丈夫です。
だって……」
なんにも見えてないんで、という言葉を悠里は呑み込んだようだった。
まだ廊下に北原がいたからだ。
「今日はどうもありがとうございました」
霊はあそこですね、というように、悠里は振り返っていたが。
いや、もうそんなところにはいないんだが……。
白い影はすでにキッチンに移動していた。
「社長、また遊びにいらしてくださいね」
別れ際の適当な挨拶だろうが、そう言われて嬉しかった。
いいのか。
そんなこと言ってるぞ、ほんとうに来るぞ、
と思いながら、上機嫌で部屋を出た七海は、悠里の笑い声が気になる話をすっかり忘れていた。
みんなが帰ったあと、悠里はもう霊がいないクローゼットに向かい、手を合わせて頭を下げた。
「住まわせてもらってありがとうございます。
家賃もおかげで安くしていただいてます。
ありがとうございます」
さてと、寝るか、とクローゼットから出して床に敷いた布団に横になる。
……気になるな。
社長が言ってた私の笑い声にもやっとする話、
と七海たちが、
「いや、お前、部屋のユーレイの方、気になれよっ。
お前の笑い声が気になる俺ですら、ユーレイに気を取られて、そのこと忘れてたのにっ」
と叫びそうなことを思っていた。
しかも、いつの間にか寝てしまう。
「おはようございます。
爽やかな朝ですね」
自動販売機の前で、悠里は後藤に声をかけた。
後藤の目の下にはクマがある。
「……何故お前は晴れやかな顔で現れるんだ。
俺は寝不足なのに。
クローゼットの前に霊がいるのは、お前の部屋だとわかっているのに、我が家のクローゼットが気になって眠れなかったんだ」
「そうなんですか。
でも、後藤さん、霊が見えるんですよね?
じゃあ、いるかいないか、そうやってわかるからいいじゃないですか」
私はいてもわかりません、と笑いながら、悠里は後藤が避けて空いた自動販売機の前に立つ。
いつの間にか現れたぶち猫が悠里の足にすりすりして来た。
「くそっ。
猫使いめっ」
とよくわからない毒を吐いて後藤が去る。
……なんなんだ、と思いながら、ボタンを押すと、ガシャンと冷たい紅茶が落ちてきた。
後藤がエレベーターの前で待っていると、悠里がやってきた。
くそっ。
捨て台詞のあとに追いつくな。
空気の読めない奴めっ。
っていうか、お前、猫現れたんだろ。
もうちょっと可愛がってやってから来いっ、と仕事そっちのけで思う。
「お疲れ様でーす」
と悠里はさっき罵られたことなど気にも留めないように言い、機械的に挨拶してきた。
……なんて心のこもってない『お疲れ様です』だ、と呆れる。
エレベーターが開くと、数人が振り返り頭を下げながら降りてきた。
見ると、奥の方に七海がいる。
こちらに気づかず、手に持った書類を見ていた。
「社長、お疲れ様ですー」
と悠里が言う。
……また、なんて心のない『お疲れ様です』だ。
お前、社長に愛はないのか、と思ったが、特になさそうだった。
七海は、おや? と周囲を見回し、
「下まで下りてしまったな」
と呟く。
途中で降りるつもりだったのに、書類を読んでいて、うっかりしたようだ。
狭い空間で社長と一緒とか、未だに緊張するな、と思いながら、エレベーターに乗り込む。
七海が悠里を見て言った。
「そういえば、昨日は、ついにお前の部屋に行ったな。
なんかユーレイの方が印象深いうえに、まったく女らしさを感じない部屋で。
わざわざ訪問する意味があったのか、今となってはわからないが。
まあ、一応、部屋には行ったな」
……やはり、この人は、本人が危惧している通り、愛を語る才能はないようだ。
「そういえば、お前、今日もあのカバンだったな。
今日はモチは入ってないのか」
いや、どんな会話だ。
「そんなにしょっちゅう入ってませんよ。
博覧会に行った日、せっかくのお出かけなので、春らしいものをと思ってタンスから出してきたら、モチが入ってたんですよ」
「あのモチ、いつから入ってたんだっ!?」
「確か、以前、神社に参拝したときにいただいた、ありがたい神様のモチですねえ」
「既に、なにもありがたくない感じになってたが……」
「そんなこと言ったら、バチが当たりますよ、社長」
「カビさせたバチ当たりはお前だろう」
と悠里は罵られている。
普通、これからカップルになりそうな男女が会話している側に突っ立っていたら、気まずくなるものだが。
なにも気まずくならないな……と思っているうちに、扉が開いた。
昼前。
「店子、この間、頼んだ……」
デスクから顔を上げた七海が言い終わらないうちに、悠里は頼まれていた書類をすっと差し出す。
「おっ、早いじゃないか。
意外な切れ者だな、店子」
七海がそう意外そうに言うと、横にいた後藤が眉をひそめた。
それに気づいた七海が、
「なんだ?」
と後藤を見上げて言う。
「いえ、私が口を挟むことではないのですが。
いい加減、貞弘の名前を覚えてやってはどうでしょう?」
ああ、そうだな、と七海は言ったが、悠里は、
「私は別に店子でもいいですよ」
と言う。
「だって、なんか音の響きが可愛いし。
『子』もついてるし、名前っぽいじゃないですか」
本気か!?
という目で、二人に見られた。
そう呼んでいる七海にまで……。
「私なんて、社長の名前、たまに間違えて、ササミって打ってますしね」
慌てて七海が今渡した書類をめくり、後藤も上から覗き込む。
「やだなあ、直しましたよ、ちゃんと~」
「……ちゃんと直したということは、この書類も一度はササミと打ったということか」
……細かいことに気づく人だな。
「気をつけろ。
そんなものを社外に送った日には、俺のあだ名がササミになってしまう。
本田建設の社長なんて、俺のこと、小さいときから知ってるから。
絶対、嬉しそうに、
『おっ、ササミちゃん、元気かねっ』
とか会うたび言うぞっ」
それはそれで楽しそうですね……。
「店子。
書類を刷り出したり、他社にデータを渡す前に、絶対、『ササミ』で検索をかけろ」
「はい、わかりました」
では、としずしずと悠里は出ていった。
「あいつ、よく派遣秘書なんてやってるな」
悠里が出て行った扉を見ながら、七海は毒づく。
「かばうわけではないですが。
ああ見えて有能ですよ」
「確かに。
わかってはいるんだが。
なんというか、言動がその……
あれじゃないか」
まあ、俺もササミと呼ばれるのは嫌なんで。
あいつのことも、ちゃんと名前で呼んでやるべきかな?
でも、あいつを貞弘と呼ぶのは、なにかこう、違和感があるんだよな。
そう思ったとき、扉の向こうから、あはははは~と悠里の軽やかな笑い声が聞こえてきた。
後藤が舌打ちをし、叱りに行こうとする。
「女同士で笑っているのなら。
息抜きも必要だ、許せ。
男と笑っているのなら、窓から吊るせ」
と無茶を言ったが、忠実な部下は、
「わかりました」
といつものように頷き、すぐに出て行った。
あいつ、ほんとうに吊るしそうだな。
止めなければ……と思いながらも、もやもやしていた。
目を閉じてみる。
扉の向こうから、
「貞弘っ、笑い声がデカいっ。
お客さまがいたらどうするんだっ」
と叱っている後藤の声と、ごまかすように笑っている悠里の声。
あははははははははははははははは
はははははははははは……
いや、そんな大胆に長く笑うことは、さすがの悠里も社長室前の廊下ではなかったのだが。
自分の頭の中でだけ、その笑い声が繰り返される。
七海は立ち上がった。
バン、と扉を開けて七海は叫ぶ。
「店子、わかったっ」
えっ? なんですかっ? という顔でその場にいた全員が振り向く。
悠里と笑っていたのは、総務のイケメンだった。
よし、吊そうっ、と心に決めながら、七海は悠里に大股に近づくと、高らかに宣言する。
「わかったぞっ。
俺はお前のファンだっ」
「は?」
「サインしてくださいっ」
七海は真顔でメモ帳を差し出した。