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斗希と結婚して、1ヶ月が過ぎた。
その1ヶ月間、仲良くはなってはいないけど、それなりに斗希と私との間に会話があった。
それは、主に本の話なのだけど。
私は本が好きで、昔からよく図書館を利用していた。
斗希が本好きなのは特に意外性はないのだけど、
ただ、斗希はわりと流行り物をよく読んでいて、それが意外だと思った。
勝手なイメージで、小難しい洋書とかを読んでいそうなので。
「あ、それ夕べ読み終えたから。
読む?」
その本はハードカバーで、最近本屋でよく平積みされている人気作家のミステリー。
「うん。読みたい」
リビングのテーブルの上に置かれているその本を、手に取った。
斗希は、今朝食の用意でキッチンに立っている。
一体、どちらが主婦なのか、と思ってしまう。
二回目の、私達の今後についての話し合いの時、
斗希が不在時に私がキッチンを使う事は構わないけど、
使った物は必ず元の場所に戻しておいて欲しい、と言われた。
そして、主な料理担当は斗希となった。
その代わり、掃除や洗濯は私の担当となった。
ただ、斗希の部屋は自分で掃除をするので、
絶対に立ち入るな、と言われている。
だから、私は斗希の部屋に入った事がない。
特に部屋に鍵とか付けているとかではないから、
斗希の留守中入ろうと思えば勝手に入れるけど、
防犯カメラとか仕掛けられていそうだな、と警戒してしまう。
少し、斗希の部屋にある本棚をじっくりと眺めてみたい、という気持ちがある。
斗希が居る時に言えばそれを見せてくれるのかもしれないけど、
なんとなく言えない。
会社では、今も1日に1~2度川邊専務とは顔を合わせるが、
仕事の事以外で話す事はない。
あれから時が経ち、川邊専務の前に立っても、あの夜を思い出し体が震えるような事はなくなった。
今日もいつものように、頼まれていた書類を持って、
専務室へと訪れた。
「こちら、お目通しお願いします」
執務机に、それを置いた。
川邊専務は、それを手に持ち、
私に視線を合わせて来た。
「あんな…」
と、少し言いにくそうに、口を開いた。
だからか、私も何を言われるのかと、身を構えてしまう。
「うちの嫁、斗希ともわりと仲良くてな。
だから、斗希の嫁のお前の事を見てみたいって。
なんつーか、一度一緒に食事でも、とか言い出していて。
お前ら夫婦をうちに招いては、とか盛り上がっていて」
何処か体調でも悪いのかと心配になる程、川邊専務の表情は重くて。
「それは、悩ましいですね」
「ああ…」
私にはめられたとしても、自分の浮気相手を、嫁や子供に会わせ、
その上、その自宅に招待するなんて。
川邊専務にしたら、拷問かもしれない。
それは、私も同じで。
この人の、奥さんや子供に直に会うなんて…。
“ーーうるせぇ。
逃げんな、殺すぞ。
ヤらせろーー”
また、思い出してしまう。
「そういえば、川邊専務の所、猫を飼われてますよね?」
「ああ。二匹居る」
以前、雑談でこの人とそんな話をした事があった。
たまたま目の前を歩いていた黒いハチワレの猫が、この人の家の猫にそっくりだったらしく、
その時横に居た私にそう話して来た。
「ならば、私が重度の猫アレルギーだと、奥様に伝えて下さい」
「あ、それはいいな」
すっと、目の前の川邊専務の表情が明るくなる。
「もし…。
ならば、それなら何処か外の店で食事でも、と話が向いたら。
私には、小麦と卵と牛乳、魚介類等、重度のアレルギーがあって、外食は難しいと話して下さい」
「ああ。なるほどな。
けど、それならお前ら夫婦の家でってなったら、どうすんだ?」
「それは…。
川邊専務の方から、流石にそれは相手に迷惑だから辞めておこう、と奥様を諭されては?」
「なるほどな。
けどよ、俺がそんな事を言うって、超怪しくねぇか?」
「―――そうですね」
そう言うと、また川邊専務と目が合うが、反射的に逸らしてしまう。
「にしても、斗希がもしお前に本気になったら。
俺、それもけっこう困んだよな」
その声は、本気でそれを懸念しているようで。
もし、親友である斗希が、私を本気で好きになったとしたら。
その私を、薬のせいだとしても、あんな風に犯して。
その複雑な心情は、分かる。
既に、今の時点でも、
斗希に対して川邊専務はあの夜の事を申し訳ないような気持ちを抱いているのかもしれない。
「斗希が私を好きにとか、あり得ないですよ」
それは、あり得ない。
だって、斗希には好きな女性が居るから。
「あれですね。
斗希と川邊専務の関係って、歪ですよね」
「そうだな。
親友の嫁のお前と関係がある時点で、おかしいよな。
普通、あり得ねぇ」
川邊専務は、そう言うけど。
彼は、知らないだろう。
斗希の好きな、女性の事を。
以前、斗希の事を色々と興信所に調べて貰った際。
何人かの女性と関係がある事が分かった。
ただ、そのどの女性とも交際はしていないみたいだと。
その時、並べられた写真の中に写る一人の女性に、見覚えがあった。
あれは、川邊専務の秘書となりすぐの頃。
「あのさ、今日、H百貨店行った後、少し寄り道していいか?
私用で」
「H百貨店営業本部の本部長の永瀬(ながせ)さんとの顔合わせが長引かなければ、問題ないかと」
この頃の川邊専務は、専務取締役に就任したばかりで、
主に挨拶回りばかりだった。
まだそれ程忙しくもないので、後のスケジュールも、余裕を持って組んでいるので、その川邊専務のお願いは問題無かった。
「今日、姪っ子の誕生日で。
いつも前もって送ってんだが、すっかり忘れてて。
だから、H百貨店で何か買ってそのまま姉貴の家に渡しに行こうと思ってな。
運がいい事に、H百貨店と姉貴の家近いんだよ」
「分かりました。
ドライバーにも事前にそう伝えておきます」
そして、川邊専務はその日、
H百貨店で買った、ゲームのソフトを持ち、その川邊専務のお姉さんの家を訪ねた。
川邊専務のお姉さんの家の近くで停めた車の後部座席で、
家の前に立ってチャイムを押している川邊専務を見ていた。
そういえば、川邊専務は川邊会長の子供だけど、
会長の奥さんとは血の繋がりが無かったな、と社内の噂を思い出した。
なら、その川邊専務のお姉さんは、
母親は同じの、種違いのお姉さんって事だろうか?
そのお姉さん迄、川邊会長の隠し子だという事はないだろう。
その複雑な川邊専務の家族関係には興味が湧いたが、
それを川邊専務本人に訊く事は出来ないだろうな。
暫くすると、その一軒家の玄関の扉が開き、一人の女性が姿を現した。
あれが、川邊専務のお姉さんだろうか?
けっこう、意外だった。
川邊専務に似てないのもそうだけど、
川邊専務と違い、まともそうというか。
髪が長くて黒く、ハーフアップで束ねていて。
長い、プリーツのスカート。
その女性の印象を言葉にするなら、清楚な女性。
川邊専務とそのお姉さんは何かを話しながら、こちらを向いた。
多分、上がって行けば、いや、仕事中で車も待たせているから、みたいなやり取りでも有ったのかもしれない。
川邊専務のお姉さんは、こちらに笑顔を浮かべて頭を下げた。
とても、綺麗な人だな。
そう思った。
興信所の応接室。
テーブルの上に広がる写真に写る、
斗希とその女性。
それは、今まさにラブホテルに入る瞬間の写真で。
それを私が手に取ると、向かいの興信所の男性が、その女性気になりますか?と問いかけて来た。
「この女性は、そちらが先程話していた、滝沢斗希の幼馴染みである川邊篤の姉です」
どの繋がりから調べたのか。
つい少し前に、
滝沢斗希と私が秘書に付いたばかりの川邊専務が、幼馴染みだと目の前のこの人からその報告書を見せて貰ったばかり。
そして、その川邊専務の姉と滝沢斗希との関係。
その真実に、手も心も震える。
このネタは、使える、と。
あの日、姪っ子へとプレゼントを届けた後、川邊専務とはその後車内で少し話したが、
その川邊専務のお姉さんは、14年程前に22歳の若さで結婚しているらしく。
現在、三人の女の子の、お母さんらしい。
川邊専務より四つ歳上らしいので、
年齢は36歳。
そのお姉さんの子供の年齢はハッキリとは分からないけど、
今日のプレゼントはお姉さんの末っ子の娘さんで、8歳の誕生日プレゼントらしい。
「あの、この女性の事調べて貰えませんか?
普段、何をしている人なのか。
もし勤めているなら勤め先。
名前迄は分かりませんけど、私、この人の家は知っているので」
その私の声は、興奮からなのか、
大きくなる。
新たなその依頼の報告書を受け取りに、
私はまたその興信所を訪れた。
その女性の名前は、木村円(きむらまどか)。
旧姓は、北浦円(きたうらまどか)。
その調査の過程で知ったが、
元々川邊専務も、北浦姓だったらしい。
円さんは、14年前に、高校の同級生と結婚していて、
そこからわりと直ぐに長女を出産しているので、いわゆるデキ婚なのだろう。
平日、近くの喫茶店で朝から14時くらい迄パートに出ているらしく。
その喫茶店の定休日は、日曜日なのだけど、毎月の第三木曜日も休みらしい。
写真で撮られていたあの滝沢斗希との会瀬は、
それと同じ第三木曜日の午前中だった。
正確には、11時過ぎから13時迄二人でラブホテルに滞在していたらしく、
ラブホテルから出て、直ぐに二人は別れているらしい。
不倫妻の昼の顔、って所なのか。
旦那が仕事へと行き、子供達を学校へと見送った後、
そうやって情事を楽しむ。
この、川邊専務のお姉さんの円さんは分からないけど、
滝沢斗希はこの人に本気なのだろう。
その二人の会瀬の写真からは、
滝沢斗希の気持ちは伝わっては来ないけど。
好きでも無ければ、わざわざ人妻で、
親友の姉になんて、手は出さないだろう。
滝沢斗希のように冷静で計算高そうな男が、
遊ぶのに選ぶ女性ではない。
そして、私は滝沢斗希との入籍後暫くして、
再度その興信所を訪れた。
9月の第三木曜日、円さんを張り込んで欲しいと。
斗希とまた、その情事を重ねるのかと。
いや、私の夫はこの女性と不倫をするのかと。
その翌日である金曜日の今日、件の事で私に連絡があり、仕事終わりにその興信所で報告書を受け取った。
結果は、黒。
自宅へと帰り、その報告書を私の部屋の床へと、投げ捨てた。
斗希を追い詰める最高の切り札を手にし、気持ちは高揚しているのに。
ほんの少し、斗希に裏切られたのだと、
ショックを受けている事に気付いてしまった。
その事実に、戸惑いから斗希に対する憎しみが揺らぐ。
この切り札は、諸刃の剣なのだろうか。
斗希は、日付が変わるギリギリに帰宅した。
斗希が部屋に荷物を置き、一息付こうとするそのタイミング。
私はリビングへと、足を踏み入れた。
「どうしたの?」
斗希は部屋着に着替え、少し疲れた顔でリビングのソファーに座っていたが、
私の気配で、こちらを振り向いた。
「話したい事があって」
その報告書が入った封筒を持ち、
私も斗希の隣に距離を取り、座る。
「なに、それ?」
斗希の視線は、私の持つその封筒に向いている。
「あなたの不倫の証拠」
そう言って、私は今日貰った報告書と、
5枚の写真を、封筒から取り出して、
テーブルに並べた。
その写真に写る自分と、円さんの姿を確認して、動揺からか、少しその顔がひきつるのが分かった。
それは、ラブホテルに斗希と円さんが二人で入る所の写真。
「―――それが、どうしたの?
俺が浮気してる事くらい、結衣分かってただろ?
それに、俺の浮気相手は、この女性だけじゃなくて、沢山いるけど」
余裕を取り戻し、平然とした顔でそう言ってのける。
だけど、先程迄開いていた手のひらを軽く握ったのは、自分を落ち着かせる為なのか。
「その女性が誰か、私が知らないとでも?」
その言葉に、斗希の目が揺れ、
それを隠せない程動揺した顔を私に向けて来た。
「篤に、言う?」
その斗希の言葉で、やはり川邊専務は、斗希とお姉さんとの関係を知らないのだと確信した。
そして、斗希はそれを川邊専務に隠したいのだと。
もし、普通の交際ならば、隠す事は無かったかもしれない。
斗希とお姉さんとの関係は、不倫。
それが、いつからなのかは分からないけど。
「だから、私はあなたと結婚したの」
そう。この為に私は斗希と結婚した。
「現在、斗希の妻である私は、堂々とこの人を責める事が出来るから」
そう。斗希と結婚する前の私には、
その権利が無かったけど。
「何が目的?
訴えて、円さんに慰謝料でも請求するつもり?」
「そうね。
そうしようかな?」
そう笑うと、斗希はただ困ったような表情を浮かべている。
「―――お願い。
それだけは、辞めて欲しい」
その、余裕のない斗希の顔。
川邊専務との事での話し合いの時もそうだったけど、
斗希のこの余裕のない顔を見ていると、
私の心がすっと軽くなる。
だけど、斗希はこの円さんが好きなのだと、それで確信してしまう。
ほんの少し、胸がチクりとして、
それに、苛立ちを感じる。
愛がなくても、私は斗希の妻だから、
そんな気持ちが湧くのだろうか?
けっして、この人に好きだとか、そんな感情を抱いてないはず。
「―――もう、この円さんと会わないで。
なら、私は何もしないから」
斗希とその円さんとの仲を、
引き裂いてやるのが端からの目的。
斗希は、もう愛しい女性の円さんに、会えない。
それは、身を切り裂かれるように辛いはず。
「分かった。
もう円さんには、会わない。
俺から連絡しない限り、彼女と会う事はないから」
そう言った斗希の顔は、それを少しも辛そうな素振りを見せなくて。
それに、違和感を覚える。
演技、なのだろうか?
私がこれ以上、円さんに対して深追いしないように、そうやって平然とした態度を見せているのか?
「俺、今日もう疲れてるから。
シャワー浴びて来る」
斗希は立ち上がり、リビングから出て行った。
斗希に円さんとの不倫を突きつけてから、
一週間が過ぎた。
私と斗希との関係は、特に変化はなく。
円さんとはもう会ってはいないだろうけど、
他の女性とはそれなりに遊んでいるのが、
帰宅時、斗希から香るシャンプーのような匂いで感じる。
夕べもそうだった。
廊下で、バスルームへと向かう斗希の前へと私が立つと、
「どうしたの?」
と、見透かしたような笑顔を浮かべている。
「風呂なら、外で入って来たんじゃないの?」
「まだ夏だからねぇ。すぐ汗かいてしまうから」
そう言って、私の横を通り過ぎてバスルームの方へと行った。
知らずに、唇を噛み締めていた。
なんでだろう。
腹が立つ。
斗希と円さんの仲を暴いて、そして、引き裂いて。
思った程ではないにしろ、
それなりに斗希を傷付けたと思う。
次は、どうやって斗希に復讐をしようか?
少し、手詰まりだと感じている。
朝。
斗希は目の前で、朝食の味噌汁に口を付けている。
その表情は涼しげで、相変わらずその一挙一動は美しい。
嫌いな私と居るだけで、斗希はそれなりにストレスを感じて辛いだろうと、こうやって一緒に生活を始めたけど。
斗希は、特に私の存在を疎ましく思い日々を過ごしている感じもなく。
段々と、この斗希との結婚の無意味さに、私の方が音を上げそう。
「あのさ、浮気はしないで」
もう、突っ込める所がそこしかなくなってしまった。
「嫉妬してるの?」
「まさか」
そう答えた私に、クスクスと斗希は楽しそうに笑っている。
「じゃあ、結衣がさせて。
毎晩とは言わないから」
笑顔を浮かべたまま言われたその言葉に、
は?、と返してしまう。
「だって、結衣がさせてくれそうにないから、他でしてるだけだし」
「どうだか?
私がもしさせても、あなたは平気で浮気するような人間に思うけど」
「ずいぶんと、俺の事分かったような事言うよね」
相変わらず笑顔なのだけど、
その目が笑っていなくて。
私は、この人の事を全然分かっていないのだろうか?
そう考えてしまった。
「話を戻すけど、俺が浮気を辞めなかったら、結衣はどうするの?
離婚?」
私と斗希にとって、離婚する事は大した事ではない。
そりゃあ、会社の人達に色々と離婚について訊かれたりとか、煩わしい事は多いかもしれないけど。
もし、斗希の不貞行為での離婚で、それなりの慰謝料を請求しても、
この人にとっては、それ程それは大した事ではないだろう。
実家もお金持ちだし、弁護士でそれなりに収入もあるだろうし。
「忘れたの?
私はあなたの弱味を握っている。
川邊専務と私の事を、川邊専務の奥さんにバラすけど?」
そう。
だから、この人は私に逆らえない。
だけど、斗希は口角を上げて笑う。
まるで、私のその言葉を待っていたかのように。
「なら、言えば?
篤の奥さんの梢ちゃんに。
俺、梢ちゃんのLINE知ってるし。
あの俺に聞かせてくれた音声でも、送り付けてみたら?」
その言葉に、え、と体温が下がるような感覚がした。
「確かに、結衣が言うように、
篤の事だから、俺はあの時冷静さを欠いていたと思う」
“ーー眞山社長の時は、あれ程余裕だったのに。
親友だと、こんなにも取り乱すんですね?ーー”
「俺、結衣の事を見誤っていた」
「どういう意味?」
「結衣に、篤の家庭を壊す程の覚悟あるの?
ないでしょ?
篤の奥さんの梢ちゃん、本当に篤の事好きだからな。
子供が居るから自殺迄はしないだろうけど、
それくらいのショックは受けるだろうな。
そんな風に、篤の家庭を滅茶苦茶にした後、結衣は仕事で篤と顔合わせられる?」
その言葉の一つ一つを想像してしまい、
思わず斗希から視線を逸らしてしまった。
「円さんの事も、別に匿名であの写真を円さんの旦那にでも送り付ければいいのに。
俺と結婚して、とかそんなまどろっこしい事しなくても。
そうしたら、俺と円さんとの関係は終わっただろうし」
何か、言葉を返さないとと思うのに、
何を言っても言い返されそうで。
「篤との事を公にされたくなければ、
俺に従って?」
そう、勝ち誇ったように笑っている。
それを、この人が公にするはずはないと分かっているけど、その言葉にぐうの音も出ない。
この男に復讐を決意した時は、
別に誰を傷付けても、みたいな覚悟があったのに。
その覚悟は、簡単に揺らいで。
「川邊専務も、あなたみたいに最悪な人間なら良かったのに」
川邊専務もそうだけど、円さんにも何も恨みなんてない。
「だから、結衣の脅しはもう通じないって事」
その脅しを、逆に私の脅しとして使われるとは思わなかったけど。
「じゃあ、もう私と離婚する?」
「いや。
まだ結衣を解放しない。
もう暫く、俺の事楽しませて」
そう、悪魔のように笑顔を浮かべている。
そうやって、斗希に対して敗北感や焦燥を感じていたからか。
◇
仕事終わり、私は都内のとあるホテルに来ていた。
そこは、いつも眞山社長と会う時に使っていたホテル。
「結衣、久しぶり。
会いたかった」
ホテルの部屋の扉を開けて、眞山社長は笑いかけて来た。
どの面下げて、そう言えるのかと、
その顔を睨み付けてしまう。
今日の昼休み。
眞山社長から、電話があった。
スマホのディスプレイに写るその名前に、目をみはる程驚いてしまう。
その時の私はちょうど、食堂へと向かう所で。
仕事の電話なのかもしれないけど、
周りに警戒するように非常階段の方へと行く。
「はい。お疲れ様です」
電話に出たのは、仕事の電話かもしれない可能性と、
私に今さら一体何の用なのか?と興味があったから。
『出てくれて良かった』
そう笑う声に、懐かしさで胸が苦しくなる。
別れてからも、眞山社長の事は何度か社内で見掛けた。
その都度、彼は私を一切見る事はなかった。
「そうよね。
あなたは私の電話に出ないもんね」
あの眞山社長の代理で斗希が来た話し合いの後、
私は何度かこの人に電話をかけた。
だけど、出てくれる事はなくて。
『時間がないから手短に話すけど、今夜会えない?
あのホテルの1105室。
夕方から役員会があるから、21時くらいに』
「何言ってるんですか?
私、結婚しているんですよ?
誰かから聞いてませんか?」
結婚していなくても、何を言っているのかと怒りが湧く。
『知ってる。一時期凄い噂だったから。
うちの顧問弁護士の滝沢君と君が結婚したって。
彼イケメンだから、彼の事いいと思ってた子、うちの会社にけっこう居たみたいだね』
眞山社長は、楽しそうに笑っていて。
「私は、行けません」
別に、斗希に悪いとかの気持ちは一切ないけど。
また再び、この人と関係を持とうとは思わない。
『一度、ちゃんと話したいんだ。
俺だって、結衣と別れたくて別れた訳じゃない。
お願い』
そんな言葉を、信じたわけじゃないけど。
「―――分かりました。
話すだけですけど」
そう言ってしまったのは、一度ちゃんとこの人と話して、文句の一つでも言ってやりたいと思っていたのもそうだけど。
私が、どこか不安定だからかもしれない。
◇
私が部屋の中に入ると、扉がゆっくりと閉まるのを背に感じた。
「話したいって、私に謝罪でもしてくれるんですか?
あ、そうそう。手切れ金のあのお金は、遠慮なく使わせて貰いました」
憤る私を、眞山社長はクスクスと笑いながら見ている。
「けっこう結衣もそうやって怒りっぽい所あるんだ」
今まで、私はこの人にこんな態度を取った事はなかった。
この人と居ると、ただ嬉しくて、幸せで。
いつも自然と笑顔が浮かんだ。
眞山社長は私を部屋の奥へと促すように、先を歩く。
広いそのホテルの部屋の真ん中には、テーブルがあり。
そこに、生ハムとクリームチーズのカナッペを始め、ちょっとした軽食と、ワインが乗っている。
そのワインは開いた状態で、
バケツ型のワインクーラーの氷に突き刺さるように入っている。
もう眞山社長は少し飲んでいるのか、
一つのグラスに、ワインが半分くらいの状態である。
食べ物には、まだ手を付けていないみたいだけど。
「結衣はもう食べた?」
「いえ」
川邊専務もその役員会に出席していたので、
秘書の私も先程迄会社に居て、まだ夕食は食べていなかった。
「じゃあ、ワイン注ぐから、座って」
眞山社長は、赤いワインを空いているグラスに注ぐ。
それを、私の方に差し出した。
「私は、話し合いに来ただけだから」
「食べながら話そう。
お腹空いたし」
こちらの感情なんか無視したように笑いかけられ、
私は悔しいと思いながらも席に着いた。
すっかり、眞山社長のペースだな、と。
「ほら、生ハムとクリームチーズのカナッペ、結衣好きだろ?」
そう促すように言われ、眞山社長を見ると、
飲みかけのワインのグラスに口を付けている。
「ワイン、頂きます」
なんとなく、素面でこの人と顔を付き合わせるのが嫌で、それに口を付ける。
悔しいけど、美味しいワインだな、と思った。
「ワインだけじゃなく、食べなよ?
空腹で飲んだら回るから」
それは、あなたもじゃないか?と思うけど。
それを口に出さず、さらにワインを煽るように飲んだ。
「話があるなら、早くして?」
そう睨むと、眞山社長は少し困ったように口を開いた。
「川邊会長の娘との婚約は、うちの父親が勝手に決めた事なんだ。
だから、俺だって結衣とは別れたくなかったけど、仕方なく。
俺から別れを直接言い出す事が辛いから、滝沢君に頼んだんだ」
そんな言葉を信じる程、私は馬鹿じゃない。
少し前なら、そうやって都合の良い言葉に、縋るように騙されたかもしれないけど。
今私をそうやって冷静にさせているのは、
冷たく私を見る斗希のあの顔が頭に浮かぶから。
“ーーあなたも大人だから分かるでしょ?
遊ばれていたんだってーー”
そう言った、あの顔。
「話は、それだけですか?」
「ああ。ちゃんと俺の本心を知って欲しくて」
あなたの本心は、私の事なんて遊びだったくせに。
「じゃあ、私帰りますね」
立ち上がり、その場所から離れようとした時。
腕を、掴まれた。
「離してください」
そんな私の言葉を遮るように、眞山社長も立ち上がり、
私を抱き締めて来る。
眞山社長に強く抱き締められ、それが苦しくて抵抗してしまう。
「俺は、結衣が一番好きだから。
誰よりも、結衣が一番大切なのに…。
帰したくない」
その言葉に、私の体から抵抗する力が抜ける。
一番好き…。
その言葉の魔力。
騙されないと思っているのに、その魔力に惑わされてしまう。
幼い頃から、母親に愛されずに兄と愛情に差をつけられて育った私は、
その、誰かにとって”一番好き”だという言葉がずっと欲しかった。
私が眞山社長を好きになったのは、
初めて、私にその言葉を言ってくれた人だったからかもしれない。
生まれて初めて、幸せだと感じた。
「結衣、愛してる」
重ねられる、その言葉。
“愛してる”
その言葉も、また私を惑わせる。
愛に飢えている私に、その言葉が染み込んで行く。
抵抗を辞めた私に、眞山社長は遠慮なくキスをして来る。
なんだか、もうどうでもよくなって来たのかもしれない。
眞山社長にまたこうやって遊ばれているのだとしても、どうでもいい。
斗希だって、浮気しているのだから、
私だって…。
なんで、斗希の事を考えてしまうのか。
空腹で飲んで急に立ち上がったからか、
酔いが回ったのを感じる。
眞山社長は私の唇を割り、舌を入れて来る。
それに、私も舌を絡ませた。
そのまま、すぐ近くにある大きなベッドへと、私は押し倒された。
「待って、シャワー浴びたい」
そう眞山社長の体を押すけど、
「ダメ」
そう言って、再びキスをされる。
私は、眞山社長に抱かれた。
もう二度と、この人とこんな風になるとは思っていなかったのに。
眞山社長は、いつものように避妊せず私の中へと入って来た。
頭の片隅で、私は今浮気をしているんだな、と思うけど。
きっと、夫である斗希は、私がこうやって眞山社長と再び関係を持った事に対して、
何も思わないだろうな。
もしかしたら、そのお互い好きに浮気をしているその状況さえも、楽しいと思うかもしれない。
斗希の事なんて考えたくないのに、
眞山社長に抱かれながらも、頭から離れない。
「結衣、好きだよ」
腰を動かしながら言われるその眞山社長の言葉。
冷静になった今は、この人が本当にそう思っていない事が分かる。
「私も好き…綾知さん」
好きじゃなくても、こうやって簡単に言えてしまうんだな、と自ら口に出してみて思う。
本当に好きじゃないからこそ、簡単に言えるのかもしれない。
私は、その眞山社長とのセックスの途中で眠ってしまったのか。
目が覚めると、一人大きなベッドで眠っていた。
カーテンの隙間から、朝の光が漏れている。
ふと目を横に向けると、部屋の真ん中のテーブルには夕べの軽食とワインがそのままの状態で置かれている。
そこに、メモのようなものがある事に気付き、
私は床に落ちている衣服を拾い、それを身に纏うと、そのテーブルに近付く。
[用事があるので、先に出ます。
夕べはありがとう。
最後に結衣ともう一度過ごせて良かった。
素敵な思い出をありがとう]
そのメモを手に取り、思わず破いてやろうかと思った。
いいよう書いてるけど、結局は私とは終わりなのだと言いたいのだろう。
何かの証拠に、このメモを置いててやろうかと思ったけど、馬鹿らしくて丸めてテーブルの上に投げ捨てた。
空いた椅子に置いていた私の鞄からスマホを取り出すと、
分かっていたけど、斗希からは連絡はない。
時刻を見ると、朝の8時を回った所。
今日が土曜日で休みだから良かったけど。
平日なら、焦る所だ。
夕べは、酔いからかぐっすりと眠ってしまったのだろう。
こんなにも眠ったのは、久しぶりのような気がする。
いつものように、眞山社長はこの部屋の支払いは事前に済ませているだろう。
急ぐ用事もないので、とりあえずシャワーでも浴びよう。
眞山社長に抱かれたこの体が、なんだか無性に気持ち悪く感じた。
それを、洗い流したい。