苦労人ってどこにでもいますね。日々感謝しなければいつの間にかどこかへ消えてたり、恐ろしい。
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「私思うんですよね。適切な報酬が与えられない労働ってする意味はあるのかと」
「すみませんすみません」
「いやね、桜井さんが悪いわけじゃないのは分かりますけどね。でも支払いの三倍程度も申請が通らないってどういうことですか?」
こめかみをピクピクとさせながら笑う雨は、平謝りしかしない紺のスーツ姿の新社会人的雰囲気を醸した二十代前半の女性に対してネチネチと嫌味なお局も真っ青な言葉のナイフをグサグサと刺していた。
「申請はしたのですが、その、総務部に止められて、いつもの支払いしかできないと」
「私が下層から毎日持ち帰るモンスターの素材の平均時価は?」
「…三億二千万円です」
「そうですよね、私がどれだけ残業しても手当は出ませんし、危険手当は一律五万円から増えることはありません。それが深夜、寝ている時に、電話で、唐突に、ダンジョンブレイクの対処をしろと、命令されたわけです。5万から15万に危険手当が増えたところで何の問題があったと言うんですか」
「誠に申し訳ございません」
桜井さんは良くやってくれてるけどね、どうしても納得のいかない事もあるわけよ。
罪悪感で思考が働かず、声が小さくなっていく桜井の一向に進まない非生産的な会話に冷笑も苛立ちが混ざって来た頃、注文していたカフェオレが来た。
他の客からしたらこんな重い会話をファミレスでしないでくれと心の底から切に願ってしまうのも仕方ない。その気まずさが偲ばれる。
「はぁ…振り込みも遅い。安月給。犬の様に使いっ走りにされる。危険手当の増額も不可能。将来の取引相手に対する応対とは思えませんね」
「ッ!どうかご容赦下さい」
「何か私が悪者みたいになってますけど、労基の一つも守れないダンジョン庁のパートタイム労働とダンジョン庁に問題がある事を認識してますか」
「それはもう、次の振込日には必ず15万円は加算させて頂きます」
「先月の中旬からの危険手当振り込みは明日までにです。15万円も含めて重々注意して下さい」
これで振り込まれてなかったら素材提供は半年ぐらい停止しよ
話は終わったとばかりにカフェオレを飲み出した雨の頬は穏やかに緩んでいた。桜井未散《さくらいみちる》はその姿を見て心臓に迫った剣《つるぎ》が遠ざかっていく錯覚を覚えた。桜井は死期が遠ざかったと密かな感動を覚えるが、咄嗟に言ってしまった振り込みの話を総務部に話を付けなければどの道明日はないと再び絶望に陥った。
放課後のパート時間前の貴重な時間を削ったとして桜井はカフェオレ代を奢る羽目になったが、それでも雨に対する罪悪感を拭い去るにはほど遠く及ばなかった。
side 桜井未散
今日が私の生を別《わか》つ最期の時、晩餐くらいは豪華にしないとね。
繁華街をトボトボと歩く桜井は既に振り込みを諦めていた。と言うのもダンジョン庁が小野崎雨への認識を改める光景など想像できなかったからだ。
そもそもパートで雇っているのでそこまでの高給を出すのは渋られるし、更に危険手当までとなると下手に人員を増やして人件費が嵩むことは避けたい。だからこそパート要員の時給は2000円で統一され、危険手当も階層が深くなるたびに増えていく。そもそも下層に置ける人材がパートでいいわけがないからヘッドハンティングされるのだが、見事に雨がそれを蹴ったのでプレッシャーをかける側面もある。
しかし、雨に対する風当たりが強くなってきた辺りから嫌な予感はしていた。彼の担当官になった当時は、ダンジョン庁警備部の新人として出来るだけにこやかに接していたが雨さんから緊張しすぎですよとたおやかに指摘されると、自然と話せるようになった。いつも会うたびに何かしら季節に絡めて情緒に浸れる話題を振ってくれた。老人の余裕たっぷりな思い出話を聞くような安心感と間延びした心地のいいあの時間が恋しい。
できる事ならあの頃に戻りたい。あんなピリピリした雨さんを相手にしてたら一時間で胃に穴が空きますよ。総務部も頑固に雨さんへの嫌がらせをやめないと、もしかしたら雨さんの鉄拳制裁が下るかもしれません。考えてたらマジで明日生きてるか危うく思えてきましたね。
警備部の自分のデスクで突っ伏しながらそんなことを思い、その結末から逃れようにも足が動かない。はあーと嘆息していると、行き場のない不安と沸々と総務部へ怒りが沸いてくるが現実的に行動しようにも具体的な手段が浮かばない。
刻一刻と過ぎていく時間を恨めしく思いながらもコンビニで買った今日の晩食を食べる。味をかみしめて最後の晩餐を楽しむ。
雨さんは三食ご飯とみそ汁と漬物って言ってたっけ。妹さんもいる中で結構やりくりするの大変って聞いてたけど、いや、だからこそ品行方正な人柄を全うしようとしてるのかな。そりゃあこんなブラックなパートの仕事してるなんて言えないよね。例え将来的な安泰が約束されてたとしても。
現実逃避的な思索もほどほどに、遂に総務部へと出向かなければならない時間がやってきた。心は特攻兵、手にはここ数か月の雨の給与明細と対応事案をまとめた資料を持っていざ、死地へ赴かん。涙を浮かべた桜井の表情はほかの職員いわく、この一年で一番の覚悟を決めていたそうだ。
やってきた総務部は七時を過ぎた現在でも半分の職員は残っている。用があるのは部長の大取康司《おおとりやすし》、雨の危険手当が上がらない原因。合理主義で基本的には真面目なのだが、徹底的に下層探索者をダンジョン庁の管理下に置こうとしていつも逃げられている。ちなみに私はこの人が嫌いだ。私が雨さんにいびり倒される原因のこいつが憎くて仕方ない。あの聖人のような雨さんを奪っていったこの男が憎くてたまらない。
できる限り自然な笑顔で大取のデスクに向かうと、そいつは背をピンと伸ばして書類を書いていた。
「お、桜井君か。どうかしたんだい?もしかして食事の誘いだったり」
私に気づいたこの銀縁メガネ男は、にへらと気の抜けた笑顔を浮かべるのだからボルテージが一気に上がるが抑える抑える。こうやって部下の前で緊張をほぐす話し方をするのが一般的にいい上司としてみられるからか私にもそうやって接してくるのが腹立つ。私部署違うし。
「いえ、小野崎雨さんの危険手当の申請が通らなかったと抗議を頂き参上した次第です」
焦点の合わない笑顔から繰り出されたのは絶対零度の平坦な声。大取は、ん?と桜井の顔と声の調子が噛み合っていない違和感を感じたがそれよりも話の内容が頭の中で優先された。
「ああ小野崎君か。今唯一のダンジョン庁所属のソロのハイランナーの警備員だったよね、危険手当の件は悪いが通常通りの支給しかできないと返答したはずなんだが」
「その危険手当ですが、深夜帯のダンジョンブレイクに対応したのにも関わらず支給されないのであれば、いかなる場合に三倍の支給がされるのか問いたいそうです」
「それは…被害が甚大なダンジョン災害発生時かな」
桜井は目の前が暗くなった。絶望的、余りにも報われない雨の仕事に対する誠実さが痛ましくて胸が張り裂けそうになる。そこまで出し渋るかと叫びだしたくなるが、今の桜井は心を無にして挑まなければならない事を思い出す。
「いえ、ですからその甚大な被害のダンジョン災害を具体的に説明していただかなければ小野崎さんになんて伝えればいいか」
「それはそのまま伝えてもらって構わないよ。彼はまだ高校生だからね、社会の厳しさを少しずつ知っていくには良いタイミングだろう」
「…そうですか」
「それよりも今日飲みに『結構です!』そ、そうか。すまなかった、じゃあまたの機会に」
返事も返さずに振り向いた私はカツカツと早足で総務部を出ていった。果たして桜井はどんな顔をして部屋から出ていったか、職員たちは口をつぐんで話し出す者は居なかった。恐ろしや。
十時過ぎ頃、自宅のマンションの一室に帰宅すると早々にベットに倒れてしまった。私は最善を尽くせただろうか、許してもらえるだろうか。いや、そんな都合のいいことは絶対にない。
自嘲して枕を濡らした桜井は明日どんな顔して雨に会えばいいのか分からなかった。情けない、申し訳ない、また怒りを買ってしまうことが恐ろしくてたまらない。そんな感情が頭を益々カオスにしていく。桜井は何を思ったのか無造作に携帯をポケットから取り出すと雨に電話をかけた。
「はいこちら小野崎」
変わらない。いつもの雨さん。安心とともに罪悪感が強くなり、言葉に詰まってしまう。
「桜井さん?どうかしましたか?」
「…雨さん。駄目でした」
言った。言ってしまった。電話越しの向こうは静寂に包まれている。電話に出ている時点で今日の業務を終わらせたのだろう。労いの言葉の一つでもかけてあげたいのに沈黙がのどを詰まらせるように緊張を高めていく。どくどくと心臓の鼓動がうるさい。
「…そうですか、未散さん。ありがとうございました、私を下の名前で呼んでる時点で分かってはいましたが、そうですか」
穏やかな声、いつも朗らかに声をかけてきてくれる時の平穏そのもののなんてことないように話しかけてきてくれる。それが意外だったので思わずこそばゆくなってしまった。しかし、その一方で胸騒ぎが音を立てて大きくなっていくような気がした。
「未散さんはとても頑張ってくれたんですね」
「…うん」
「未散さんはそんなにも気にかけてくれたんですね」
「…うん…うっ」
「未散さん…ありがとうございました。後は私が何とかするべきですね」
こんなにも心の籠った感謝など言われたのはいつ以来だろうか。二年、いや三年は聞いていない。私は雨君に心酔してはいないが惹かれてはいる。心に染み入る滋雨は暖かくて心地よかった。この1年の苦悩が洗い流されていくようで報われた。
嗚咽を漏らす私に何も言わず、電話も切ることなく私の返答を待ってくれる雨君にますます泣いてしまった。理由など誰にわかるだろうか。
「落ち着きましたか?」
「ぐす…はい」
「そのままでいいので聞いといてください。私は決定に対してこれ以上の追及をやめます。信用は地に落ちたことをお伝えください、それと、半年間の下層モンスターの素材提供を停止します」
そもそもこの手を使えばいくらでも危険手当の増額など要求できた。なのに気に入らないからと雨君はしなかった。骨の髄を引き抜くような罪悪感が沸くからだと言っていた。よく分からない例えだったがなんとなく言いたいことは理解できた。晴さんに誇ってもらえるような清廉潔白な行いを意識しなければならないのも彼には苦痛なことではないのだろう。
「どうせ家に帰ってそのまま泣きそうになって着替えもしてないんですよね。さっさと休むことをお勧めします」
硬質さを取り戻した彼は最後にそう言って電話を切った。呆気に取られた私は恥ずかしくなって勢い良くスマホを布団へ押し込んでしまった。ばれてた、て言うか勘良すぎじゃない雨君。流石ソロの下層探索者、実力の片鱗が伺える。そう自身の行動の単調さを見破られているだけなのに曲解してしまった。
風呂に入りすぐに寝てしまった。顔の熱はついに引くこともなく桜井を悶々とさせた。
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