第10話「夜の線路沿い」
夜の空は重たく、雲が低く垂れ込めていた。
街灯もまばらな線路沿いの道を、ふたりは黙って歩いていた。
地図アプリも、スマホも、今は使えない。
頼りになるのは、事前に調べて印刷してきた地図と、記憶だけだった。
「…つかさ、もう、少しだけ休もう?」
ひなたがそう言うと、つかさは一歩だけ先を歩いていた足を止めた。
「まだ大丈夫。あと二駅分歩けば、深夜バスが出るはずだ。今ここで止まったら、間に合わない」
「うん……」
つかさの声は冷静だったけれど、足取りには少しずつ疲れが滲んでいた。
それでもひなたの目には、彼女の背中が頼もしく見えていた。
「こんな線路沿い、誰も歩かないのにね」
「だから安全なんだよ。人目がない、っていうのは、逃げる側にとっては利点だから」
会話は短く、それでも交わされる言葉ひとつひとつが、ひなたの中に灯をともすようだった。
道の脇には草が揺れていて、ところどころに踏切があった。
電車はもう動いていない。ただ、時折遠くから風の音が聞こえるだけ。
「ねぇ、つかさ」
「ん?」
「私、最初は“逃げる”って、もっと簡単なことかと思ってた。
どこかに行けば、全部終わるんじゃないかって。
でも、違った。毎日、怖い。……自分が自分でなくなるみたいで」
言葉が震えていた。けれど、それを止めようとは思わなかった。
つかさは少しだけ振り返って、静かに言った。
「私もだよ。
あんたがいたから、逃げられたけど……
本当は、自分が何をやってるのか、わかんなくなるとき、ある」
その言葉に、ひなたの足が止まった。
「でもね、私は……」
つかさが振り返る。
「たとえ全部が間違いだったとしても、あんたとなら、それでよかったって思える」
一瞬、ひなたは息を止めた。
遠くで、貨物列車がゆっくりと通り過ぎていく音が響く。
その音の向こう側で、心の奥に沈んでいたものが、波紋のように広がった。
「私も……そう思う」
その言葉を伝えたとき、なぜか涙がこぼれた。
でも、もう止めようとは思わなかった。
「もうすぐ、町外れだ。あと少し、歩こう」
つかさがひなたの手を引く。
その手は確かに、温かかった。
ふたりは、線路沿いの闇の中をまた歩き出す。
少しだけ強くなった歩幅で、心を寄せるように。
夜はまだ長い。けれど、もうひとりじゃないと確信がついた。
コメント
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いちかさん。かっけぇっす