コメント
3件
いちかさん。かっけぇっす
第10話「夜の線路沿い」
夜の空は重たく、雲が低く垂れ込めていた。
街灯もまばらな線路沿いの道を、ふたりは黙って歩いていた。
地図アプリも、スマホも、今は使えない。
頼りになるのは、事前に調べて印刷してきた地図と、記憶だけだった。
「…つかさ、もう、少しだけ休もう?」
ひなたがそう言うと、つかさは一歩だけ先を歩いていた足を止めた。
「まだ大丈夫。あと二駅分歩けば、深夜バスが出るはずだ。今ここで止まったら、間に合わない」
「うん……」
つかさの声は冷静だったけれど、足取りには少しずつ疲れが滲んでいた。
それでもひなたの目には、彼女の背中が頼もしく見えていた。
「こんな線路沿い、誰も歩かないのにね」
「だから安全なんだよ。人目がない、っていうのは、逃げる側にとっては利点だから」
会話は短く、それでも交わされる言葉ひとつひとつが、ひなたの中に灯をともすようだった。
道の脇には草が揺れていて、ところどころに踏切があった。
電車はもう動いていない。ただ、時折遠くから風の音が聞こえるだけ。
「ねぇ、つかさ」
「ん?」
「私、最初は“逃げる”って、もっと簡単なことかと思ってた。
どこかに行けば、全部終わるんじゃないかって。
でも、違った。毎日、怖い。……自分が自分でなくなるみたいで」
言葉が震えていた。けれど、それを止めようとは思わなかった。
つかさは少しだけ振り返って、静かに言った。
「私もだよ。
あんたがいたから、逃げられたけど……
本当は、自分が何をやってるのか、わかんなくなるとき、ある」
その言葉に、ひなたの足が止まった。
「でもね、私は……」
つかさが振り返る。
「たとえ全部が間違いだったとしても、あんたとなら、それでよかったって思える」
一瞬、ひなたは息を止めた。
遠くで、貨物列車がゆっくりと通り過ぎていく音が響く。
その音の向こう側で、心の奥に沈んでいたものが、波紋のように広がった。
「私も……そう思う」
その言葉を伝えたとき、なぜか涙がこぼれた。
でも、もう止めようとは思わなかった。
「もうすぐ、町外れだ。あと少し、歩こう」
つかさがひなたの手を引く。
その手は確かに、温かかった。
ふたりは、線路沿いの闇の中をまた歩き出す。
少しだけ強くなった歩幅で、心を寄せるように。
夜はまだ長い。けれど、もうひとりじゃないと確信がついた。