テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#ライトノベル
こはる
871
Nu²Ⅰ
14,737
上野文
6,157
#ご本人様には関係ありません
ふゅう@低浮上
8,626
第246話 消された名
【異世界・王都イルダ/分析室・昼】
「エリウスが存在したことを、話します」
セラがその名を口にした直後、水晶板の端に浮かんでいた黒い針が止まった。
ほんの一瞬だけだった。
次の瞬間、針は何本にも分かれ、セラの記憶を囲むように広がった。
水晶板に記録された《エリウス》の文字が揺らぎ、輪郭が薄くなる。
ノノがすぐに端末へ手を伸ばした。
「記録が消される!」
文字の一部が欠けた。
《エ ウス》
さらに白いノイズが重なり、残った文字も読めなくなろうとする。
セラは水晶板を見つめたまま言った。
「同じです」
「何が?」
「以前も、こうして消されました」
その声と同時に、分析室の周囲へ灰色の壁が立ち上がった。
扉も窓もない。
通信の光が弱まり、医療棟へ繋がっていた線が細くなる。
ノノが息を呑んだ。
『ハレル、聞こえる?』
返事は来ない。
代わりに、深層からオルガの声が響いた。
『それ以上、話す必要はない』
冷静な声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、分析室全体を押さえつけるような重さがある。
セラは静かに答えた。
「必要があります」
『過去の記録は現在の帰還作業に不要だ』
「あなたがそう判断することではありません」
灰色の壁に、何重もの文字が流れ始めた。
《未登録》
《該当人物なし》
《研究者記録なし》
《王都所属者一覧に存在せず》
エリウスという名前を、最初から存在しなかったものへ戻そうとしている。
さらに、灰色の壁の外側から低い声がした。
『閉じろ』
ヴァルド・レイグ。
その声に合わせ、分析室の床へ古い封鎖術式が広がった。
通信。
記録。
記憶。
三つを別々に閉じる結界だった。
ノノが端末を操作する。
「外へ送れない」
「記録も保存できない!」
セラの身体も薄く揺れた。
エリウスの名前に繋がる記憶そのものが、奥へ押し戻されようとしている。
その時。
医療棟へ続く細い白線が強く光った。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】
白い壁の向こうにいる匠が、すぐに異変へ気づいた。
「オルガとヴァルドだ」
ハレルが主鍵を握る。
「セラの通信が切れかけてる」
「繋ぎ止めろ」
匠は補助層へ手を入れた。
白い線が治療室の床から壁へ走り、そのまま分析室を囲む灰色の結界へ向かう。
ヴァルドの封鎖術式は強い。
無理に壊せば、セラの記憶まで傷つく。
匠は白い線を結界の隙間へ一本ずつ通した。
「閉じるための結界なら、必ず内と外を分ける線がある」
ハレルが聞く。
「そこを開けるのか」
「違う」
匠は目を細めた。
「内側を外へ出す必要はない」
「外側にいる私たちが、内側の記録を覚えればいい」
ハレルはすぐに理解した。
主鍵の光を分析室へ向ける。
「エリウス」
名前を呼ぶ。
灰色の結界が震えた。
「王都にいた研究者」
「セラを助けた人」
サキもスマホを胸元へ抱えた。
「エリウスさん」
reが強く光る。
その光が灰色の結界に空いた小さな隙間を見つけ、白い線を滑り込ませた。
リオもユナの寝台を守りながら言う。
「俺も聞いた」
「エリウスって研究者がいた」
一人だけの記憶ではない。
ハレル。
サキ。
リオ。
匠。
複数の存在が同じ名前を覚えたことで、薄れかけていた文字が再び形を取り戻していく。
《エリウス》
ノノの声が、ノイズの向こうから戻った。
『聞こえた!』
『通信、細いけど戻った!』
匠は灰色の結界へ向かって言った。
「その名は、もう消させない」
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層】
オルガは分析室を囲む灰色の結界を見ていた。
その横で、ヴァルドが封鎖線をさらに狭めようとしている。
だが、白い補助線が結界の内側と外側へ入り込み、エリウスの名前を複数の場所へ分けていた。
「まだ閉じられる」
ヴァルドが言う。
「記憶の元を断てばいい」
オルガも頷く。
「セラの内部にある記録を止める」
二人が同時に動こうとした時、白峰律が静かに言った。
「もう遅い」
オルガの手が止まる。
「何がだ」
白峰は現実側の画面を示した。
帰還した学園。
臨時医療受け入れ室。
日下部の端末に、《エリウス》という名前が届いている。
佐伯。
村瀬。
二人も聞いていた。
さらに日下部は、その名を隔離記録へ保存しようとしている。
「名前が一つの記憶にしかないうちは消せる」
白峰は穏やかに続ける。
「だが、別々の人間が同じ名前を知った」
「現実と異世界の両方でな」
カシウスも、セラの記憶を囲む黒い針を見た。
「エリウスの名が出た時点で、もう遅い」
オルガの目が冷たくなる。
「なら、内容を止める」
「止めれば、何を隠しているか教えることになる」
白峰は薄く笑った。
「今さら存在だけ認めて、研究を隠すのか」
ヴァルドが低く言う。
「すべてを話させる必要はない」
カシウスは答えた。
「話させろ」
オルガが振り向く。
「なぜだ」
「セラの記憶がどこまで残っているか確認する」
カシウスにとって、エリウスの名誉も、オルガたちの秘密も重要ではない。
観測できるものが増える。
ただ、それだけだった。
「それに」
カシウスはreの白い光を見る。
「エリウスの研究と、あの未登録の光がどう繋がるか知りたい」
reは何も語らない。
ただ、セラへ続く線を守るように光っている。
◆ ◆ ◆
【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】
日下部の端末へ、ノイズ混じりの音声が届いていた。
『エリウスが存在したことを、話します』
セラの声。
その直後、画面に灰色のノイズが広がった。
《該当人物なし》
《記録なし》
《存在確認不能》
日下部はすぐに通信を隔離回線へ切り替える。
「佐伯さん、紙を」
佐伯が記録用紙を取る。
「名前は?」
「エリウス」
佐伯は大きく書いた。
『エリウス』
村瀬も同じ名前を声に出す。
「エリウス」
「王都にいた研究者」
「セラさんを助けた人」
端末の記録が消されても、人間が覚えていれば残る。
日下部も別の紙へ書いた。
名前。
王都。
研究者。
結界層。
セラの救命。
「城ヶ峰さんへ送ります」
しかし、送信画面にはエラーが出た。
《文字列を確認できません》
「名前だけ送れない」
村瀬が画面を見て言う。
「周りの文章ごと送ってください」
日下部は文章を打ち直した。
『セラの証言に、王都の研究者エリウスという人物が登場。
現在、通信と記録への妨害あり。人物の実在確認を求めます。』
今度は送信できた。
数秒後。
城ヶ峰から返事が届く。
『受信した。名前を複数の媒体へ残せ。』
『木崎にも共有する。』
『調査は警察側で開始する。』
日下部は息を吐いた。
「これで、現実側にも残りました」
佐伯は紙に書かれた名前を見る。
「誰かが本当に消そうとしてる」
村瀬が言う。
「だから、セラさんは話してるんです」
三人は再び通信へ耳を傾けた。
ユナの帰還準備を続けながら、消された研究者の証言を受け取る。
何か異常が起これば、すぐに城ヶ峰へ連絡する。
それが、現実側に残った三人の役目だった。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/分析室・昼】
灰色の壁は残っている。
だが、完全には閉じていない。
匠の補助線。
ハレルたちの主鍵と副鍵。
reの白い線。
そして、現実側から届く記録の光。
それらが、セラの言葉を外へ繋いでいた。
ノノはセラを見る。
「続けられる?」
セラの身体は、まだ少し揺れていた。
エリウスの記憶を引き出すたび、オルガの灰色の文字がそれを隠そうとする。
それでも、セラは頷いた。
「続けます」
「無理しないで」
「今、止めれば」
セラは薄くなった《エリウス》の文字を見る。
「また、存在しなかったことにされます」
セラは目を閉じた。
白い分析室が消える。
代わりに、過去の結界層が広がった。
◆ ◆ ◆
【異世界・エリウスの結界層/過去】
セラが目を覚ましたあと、エリウスは毎日やって来た。
身体を持たないセラにとって、朝も夜も分からない。
だからエリウスが来ることが、一日の始まりだった。
『聞こえるか』
最初に必ず同じ言葉をかける。
セラは光の文字で答えた。
《聞こえる》
『名前は?』
《セラ》
『今、何を覚えている』
セラは少しずつ記憶を並べた。
父親。
母親。
町。
燃える家。
握っていた手。
初めの頃は、それだけで光が大きく乱れた。
記憶を思い出すたび、身体がないことを強く感じる。
泣こうとしても涙がない。
叫ぼうとしても声がない。
エリウスは、無理に記憶を掘り起こさなかった。
『今日はここまでにしよう』
《まだできる》
『できることと、続けていいことは違う』
エリウスはいつもそう言った。
セラの反応を記録しながらも、セラ自身が嫌がることはしなかった。
道具として扱わない。
記録として保存するだけにしない。
戦場で言った言葉を、本当に守っていた。
やがて、セラは結界層の中で形を作れるようになった。
最初は小さな光。
次に手。
顔。
身体。
本物の肉体ではない。
自分が覚えている自分の姿を、光の中へ作ったものだった。
エリウスは、その姿を見て少し驚いた。
『その服は?』
セラは自分の姿を見る。
町にいた頃、母親が作ってくれた服。
《これしか覚えていない》
『なら、それでいい』
エリウスは笑った。
『誰かが決めた姿ではなく、自分で覚えている姿を使いなさい』
セラは結界層の中を歩いた。
足は地面に触れない。
それでも、歩く形を覚えていた。
エリウスが置いた本を読む。
術式。
王都の地図。
結界の構造。
傷ついた意識の扱い方。
情報を別の場所へ運ぶための方法。
身体を失ったセラには、眠る必要がほとんどなかった。
そのため、多くの情報がセラの中へ積み重なっていった。
「私は、最初から分析ができたわけではありません」
現在のセラの声が、過去の景色へ重なる。
「エリウスが、一つずつ教えてくれました」
◆ ◆ ◆
エリウスは、結界層にいくつもの小さな道を作った。
王都の治療所。
研究室。
結界塔。
遠く離れた観測所。
直接人間が通れる道ではない。
情報や声だけを運ぶための細い道。
セラは、その道の中を動けた。
ある日、エリウスが一つの光を示した。
『この反応が、どこへ向かっているか分かるか』
光は三つに分かれている。
一つは治療所。
一つは結界塔。
一つは暗い層。
セラは光を見た。
最も明るい道が正しいように見える。
だが、その道には途中から帰りの線がなかった。
《明るい道は、戻れない》
エリウスの目が変わった。
『なぜ分かった』
《道の先がない》
『地図にはある』
《でも、戻る人の名前がない》
エリウスはしばらく黙った。
それから、紙へ何かを書き始めた。
『セラ』
《なに》
『君は、道の形だけではなく、意味を見ている』
それが、案内人としての始まりだった。
エリウスはセラに命令しなかった。
どの道を選べとも言わない。
代わりに質問した。
『危険なのはどこだ』
『戻れないのはどこだ』
『名前が消えるのはどこだ』
セラは、一つずつ答えた。
やがて王都の治療術師たちは、
意識を失った患者の反応を確認する時、エリウスの結界層を使うようになった。
迷った意識。
身体へ戻れない名前。
記憶に引かれ、別の場所へ向かおうとする者。
セラは、安全な道を示した。
ただし、最後に戻るかどうかは本人に任せた。
ある時、セラはエリウスへ聞いた。
《私の役目は、みんなを戻すこと?》
エリウスは首を振った。
『違う』
《でも、私は道を教えている》
『教えるのは危険な道と、安全な道だけだ』
エリウスはセラの前に膝をついた。
肉体のないセラと、目の高さを合わせるように。
『どこへ行くかを決めるのは、その人自身だ』
《間違った道を選んだら?》
『それでも、選択を奪ってはいけない』
エリウスは静かに言った。
『案内人は、命令する者ではない』
『正しい答えを押しつける者でもない』
『その人が自分で決められる場所まで、道を残す者だ』
セラは、その言葉を何度も覚えた。
エリウスは研究者だった。
先生だった。
そして、セラにとっては。
失った父親の代わりに、毎日名前を呼んでくれる人だった。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/分析室・現在】
セラの声は、わずかに震えていた。
「エリウスは、私を案内人に作り替えたのではありません」
「私が道を見つけられると知って、その力の使い方を教えてくれました」
ノノが小さく言う。
「お父さんみたいな人だったんだね」
セラは少しだけ目を伏せる。
「はい」
短い返事だった。
それでも、その一言には長い時間が詰まっていた。
その時、ノノの水晶板へ過去の案内式が表示された。
セラが教わったもの。
道。
名前。
場所。
選択。
その記号を見て、ノノの表情が変わる。
「これ……」
「どうしました?」
「私、似た形を知ってる」
ノノは別の記録を開いた。
以前、オルガの下で分析官として働いていた頃に教えられた基礎式。
名称は違う。
並び方も一部変えられている。
だが、中心の構造は同じだった。
「オルガが使ってた分析式の元になってる」
セラは静かに頷いた。
「そうです」
灰色の壁が、再び強く揺れた。
深層側でオルガが反応している。
ノノは画面を見つめる。
「じゃあ、オルガの分析術は……」
セラは答えた。
「エリウスの研究から作られたものです」
その言葉が外へ届いた瞬間。
灰色の封鎖結界に、大きなひびが入った。
◆ ◆ ◆
【異世界・エリウスの研究室/過去】
ある日。
エリウスの研究室に、二人の客が訪れた。
灰色の長衣を着た若い分析官。
オルガ・セフィロ。
そして、王都でも名を知られた結界術士。
ヴァルド・レイグ。
エリウスは二人を研究室へ入れた。
だが、結界層の奥にいるセラへは、こう伝えた。
『今日は出てこなくていい』
《危険な人?》
エリウスは少し黙った。
『まだ分からない』
研究室の中央で、オルガは机の上の資料を見た。
「意識を名前で固定し、結界層へ保存する技術」
ヴァルドは壁に刻まれた術式へ触れる。
「層を閉じたまま、情報だけを通している」
二人の目には、驚きよりも強い興味があった。
オルガはエリウスを見る。
「協力してほしい」
「何に」
「もっと大きな門を作る」
エリウスの表情が変わる。
「誰を通す門だ」
オルガは静かに答えた。
「失われた者を、別の層から戻すための門だ」
結界層の奥で。
セラは、その言葉を聞いていた。
コメント
1件
第246話、とても重くて美しい回でしたね。匠さんの「内側を外へ出す必要はない、覚えればいい」という言葉、胸に響きました。消そうとする力と、複数の人間が覚えることで名前を守る構図が本当に切なかった。エリウスがセラに「選択を奪ってはいけない」と教えたシーンも印象的です。オルガの分析術の元がエリウスだったという伏線の回収にもグッときました😢 尊いエピソードでした。