グレンシスはティアに『どうして』と問われた時、一つの言葉を飲み込み、とてもありきたりな言葉を紡いだ。
本当は、好きだからと言いたかった。
そんなわかりきったことを尋ねるなとも言いたかったが、バザロフの存在があったから、想いを伝えられなかった。
だから一番伝えたい気持ちを飲み込み、でもティアとの縁が切れないようにする言葉を吐いたのだ。
それなのにティアは、グレンシスの健全な下心を優しく綺麗な言葉を使って拒んだ。
八方塞がりになってしまったグレンシスだが、神様はイケメンにはとことん甘いようで、救いの手を差し伸べた。
「……ところで騎士様は、あれから怪我の後遺症とか、季節の変わり目に傷跡が痛むとかはありませんか?」
会話が途切れ、ただ黙々と目的地に進んでいたけれど、ここでおもむろにティアから問いかけられた。
「あ……いや。まったく問題ない」
少し間が開いてしまったのは、ティアの声があまりに小さくて、全部を聞き取ることができなかったからだ。
けれど大体の内容を理解して答えれば、ティアは小さく安堵の笑みを浮かべた。
「良かったです。古傷の痛みは辛いですから……」
ティアの呟きは、誰に聞かせるものでもなかったけれど、古傷というワードは、グレンシスに良いヒントを与えることになった。
「もしかして、ティア。バザロフ様にも、この術を使っているのか?」
「はい」
あっさりと答えたティアに、グレンシスは思わず口がすべってしまった。
「恋人ではないのか?」
グレンシスは言い終えるや否や、下手を打ったと、内心舌打ちした。
二人の関係がどういうものかわかっていても、直接本人から訊くのには心の準備が必要になる。
グレンシスはそんな準備はできていないし、する気もない。
もし仮に是と頷かれ、あまり表情が動かないティアの頬が赤く染まったりなどしたら、かなり面白くない。いや、相当に辛い。
グレンシスは胃の上の箇所に痛みを覚えながら、ティアの返答を固唾をのんで待っていたが───
「え?恋人??わ、私がですか??」
予想に反して、ティアは目を丸くするだけだった。
「違うのか?」
「全然、違います」
食い気味に否定され、グレンシスは安堵のあまり笑いだしたくなる。
けれどここで高笑いなどしようものなら、ティアを始め、他の部下達もひっくり返ってしまうだろう。上官の面子は守りたい。
そんな理由でグレンシスが緩んでしまう口元を必死に引き結んでいれば、ティアは控えめな声で続きを語る。
「バザロフさまは、私にとって父親の代わりのような存在なんです。小さい頃から、何かとお世話になってまして。それに……」
「それに?」
落ち着いた口調で続きを促せば、ティアは言いにくそうに口を開く。
「バザロフさまは、マダムローズにぞっこんなんです。それはずっとずっと」
「……そうなのか?」
「はい。だって、メゾン・プレザンは、バザロフさまが、マダムローズへ贈ったものなんです」
「なる……ほど……」
グレンシスは脱力した。それこそ馬に乗っていなければ、その場で崩れ落ちるほど。
この半月以上ずっと自分の胸に居座っていた重い鉛のような塊が、一気に消えてなくなった。
胸をざわつかせていた少女の正体は、ずっと自分が探し続けてきた想い人で、パトロンに囲われる娼婦でもなかった。
無論、ならティアの恋の相手が誰なのかという疑問が残るが、今はそんなことは、聞きたくもないし、聞く必要もない。
グレンシスは、手綱を握る手に力を込める。
「あっ、あの。今言ったことは、内緒にしてください。一応、あの娼館はマダムローズが自前で建てたことになっていますので……騎士さま、お願いです」
言い終えたティアは、人差し指を口元に当てる。
その仕草が、とても可憐で可愛らしくて、思わずその指を掴んでそのまま喰んでしまいたくなる。
けれど、さすがにそんなことをしてしまったら、引かれてしまうだろう。ただでさえ、再会した時の印象は悪かったのだ。
だから挽回するためにも、グレンシスはすぐに頷くべきなのだが、気付いてしまったのだ。
ティアに、一度も名前を呼ばれていないことに。
「ああ、わかった。ただし条件がある」
「は……い?」
引きつったティアに向け、グレンシスは敢えて意地の悪い笑みを向けた。
「これからは俺のことをグレンシスと呼ぶように」
「は?」
「試しに呼んでみろ」
顎でしゃくって促せば、ティアは世界中の人間から見放されたかのように悲痛な表情を浮かべる。
でも、辛抱強く待てば、渋々といった感じで小さな唇が動いた。
「……グレンシスさま」
「もう一度」
「グレンシスさま」
「ああ。そうだ」
「グレンシスさま」
3度目に名を呼ばれた時、グレンシスはたまらない気持ちになった。だが、もっと欲が出た。
「やっぱり、駄目だ」
「ええっ」
そんな殺生な、と目で訴えるティアに、グレンシスは目を細めてこう言った。
「グレン。そう呼べ」
「……グレンさま」
まるで苦い薬を飲んだ後のような声で、ティアが自分の名を口にした途端、とても納得する位置に落ちた。
グレンシスは自分の名に意味があるなどと、思ったことはこれまで一度もなかった。ただの、個々を表す記号でしかなかった。
でも好きな人が口にするだけで、特別なものに変わることをグレンシスは初めて知った。
この提案に満足したグレンシスは、取引が成立したことをティアに告げる。
「よし。では、これでバザロフ様とマダムローズのことは二人だけの秘密にしよう」
「はい。ありがとうございます」
安堵から顔を綻ばせたティアを目にして、グレンシスの胸はちくりと痛んだ。
ティアは、あまりにも無欲だ。
自分の怪我を差し置いて、他の怪我人の治療をする──ティアにしかできないことだから仕方がないのかもしれない。
けれど、グレイシスは理不尽だと思った。
強引に王女の供として旅に連行され、不安なことも、恐ろしいことも、痛いこともあった。
それなのにティアは、一度も不満もワガママも口にすることはなかった。
娼館という特殊な環境に身を置いているせいなのかもしれないが、それでも、まだ誰かの庇護を必要とする少女であることには変わらない。
それに人より秀でたものを持っているからと言って、我慢をしなければならない理由などどこにもない。
もっともっと恵まれない環境にいる人間は、ごまんといるし、ティア自身がこの現状を嘆いているわけではないこともわかっている。
それでも大切な人に対して、特別扱いしたくなるのは世の常である。
(どうすればいいのか……)
グレンシスが悩んだのは一瞬で、すぐに気付いた。なら、自分が癒せばいいと。とことん甘やかせばいいのだと。
無欲なこの少女を甘やかすことができる特権を持つのは、自分だけになればいいという独占欲も湧き上がる。
夜の森は、そろそろ抜ける。
幸いにも、この貴重なひと時を邪魔する獣は現れなかった。
何の気なしに空を見上げると、驚くほど星の位置が西に移動していた。あと数時間も経たないうちに、夜が明けるだろう。
「ティア、ハンネ卿まであと少しで到着する。それまで、ゆっくりと休んでいろ」
──俺の腕の中で。優しくグレンシスが囁けば、ティアは居心地悪そうに、もじっと身じろぎをした。
それを咎めるように、太い腕はティアをより強く抱きかかえた。
「動くな。逃げようとするなよ。ティア……お前は、ここにいろ」
硬い声音は、グレンシスの決心を表しているかのようだった。