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翌日、ロハンネ卿の屋敷から出立したティアたちは、無事、定刻とされていた夕方にサチェ渓谷にある関所に到着した。
国境でもあるサチェ渓谷は、ウィリスタリア国とオルドレイ国を跨ぐ大きな橋が建てられている。
かつてオルドレイ国は、資源豊かなウィリスタリア国の領土を求め、ウィリスタリア国は資源に乏しくとも、それを補うさまざまな技術を持つオルドレイ国の人材を求めて、二つの国は戦争をした。
その結果、多くの犠牲者をもたらしたが、両国とも何も得るものはなかった。ただ激しい後悔と、言葉にできない喪失感と悲しみを産んだだけだった。
戦後、両国が新しい関係を築くために建てられたこの橋は、”始まりの橋”とも呼ばれている。
設計したのはオルドレイ国で、資材を提供したのはウィリスタリア国。互いを信頼しなければ成立しなかったそこに、両国の関所が併設された。
関所の建物はウィリスタリア国の優雅な曲線を主としているが、窓枠や入口の大きな門扉にはオルドレイ国の色鮮やかなタイルが埋め込まれ、国の境目らしい趣のあるものになっている。
そこに正装した両国の関所の責任者達を始め、これからアジェーリアの護衛となるであろうオルドレイ国の騎士たちが、アジェーリアを出迎えるために門前で待機していた。
ディモルトは、期待を裏切らず、きちんと正装をして最前列にいる。
彼は花嫁を迎えに来た花婿らしく、金糸と銀糸で刺繍がされた水色の丈の長い上着を羽織り、オルドレイ国の民族衣装の円筒型の帽子をかぶっている。
白銀の髪は緩く宝石の付いた髪留めでまとめられ、帽子についている鮮やかな青色の羽飾りは、アジェーリアの瞳の色を意識しての事なのだろう。
そんなディモルトの隣にいるお目付け役のキバルは、今日もまた苦い顔をしている。
「……まったくこらえ性のない御仁だ」
窓から目を離してティアに苦笑を浮かべるアジェーリアは、青紫色のドレスを纏い、輝くように美しい。
この衣装は、昨日の騒ぎで全てを放置したままロハンネ卿の屋敷に移動してしまったけれど、後ほどちゃんと届けられた。
今朝、ロハンネ卿の屋敷にはその道のプロの使用人がいるのにも拘わらず、アジェーリアは、ティアに身支度を命じてくれた。
それがティアには、とても嬉しかった。
身支度を終えて馬車に乗り込むと、今日で最後という気持ちもあってか、二人は時間を惜しむかのように沢山の話をした。
その中に、アジェーリアがどうして輿入れを急いだ理由もあった。
北方のオルドレイ国は領土も狭く、山岳地帯にあるため資源に乏しい。冬を越せない民が数多くいるという。
流行り病が毎年猛威を振るい、多くの犠牲者が出てしまうからだ。
この婚姻は、二国間での契約でもある。その契約の中に、アジェーリアが嫁いだ後は、物資の支援をするという内容が記されていた。
だからアジェーリアは、オルドレイ国が冬を迎える前に嫁ぐことに決めた。
アジェーリアの肩には、とても重いものが乗っているが、アジェーリアは好きな人の元に、望まれて嫁ぐ。
これもまた、事実である。
「アジェーリアさま、ご結婚おめでとうございます。どうかお幸せに」
万感の思いを込めてティアが祝福の言葉を送れば、アジェーリアは大輪の花のように笑い──馬車は、静かに停まった。
ロハンネ卿が用意した馬車は、これまで移動で使っていたものとは比べ物にならないほど立派だった。
ピカピカに磨き上げられた真っ黒な車体には、黄金の葉の彫刻が装飾され、夕陽を浴びるそれは目が痛い程に輝いている。
そんな馬車の扉は、遠征服ではなく、正装服に身を包んだグレンシスの手によって開かれた。
「足元にお気を付けください」
「うむ。ご苦労であった」
短い言葉を交わし、アジェーリアは優雅に地面に降り立つ。
そして、振り返ることなくグレンシスのエスコートによって歩き始めた。
馬車の中からその光景を見たティアは、鼻の奥がつんと痛む。
娼館は、人の出入りが激しい。だからティアは、これまで沢山の別れを経験してきた。けれど、そのどれよりも切なく、寂しかった。
言い換えると、この1ヶ月がティアにとって、思い出に残る日々であった証拠でもある。
だから涙を流す代わりに、ティアはもう一度、去っていくアジェーリアに向かい祝福の言葉を心の中で贈った。