教授との待ち合わせ場所は、舞浜駅前のファストフードで、私はひとりでカフェラテを飲んでいた。ウィンドウ越しには、家族連れや外国人観光客らが、楽しげに行き交っている姿が見える。
目の前がディズニーランドだから仕方ないけど、そんな光景を眺めながら、大学時代の思い出に浸れる心の余裕など、今の私には皆無だった。
引き返すなら…
此の期に及んでの後ろめたさが、高ぶる感情を殺している。
やはり私も人の子なのだ。
『浮気』
を、本気で楽しめるわけがない。
舞浜駅で待ち合せになったのは、教授の仕事の関係上都合が良かったからで、話題のフレンチレストランで食事をするだけの約束だった。
私は車で向かおうか、電車を利用しようか悩んだけれど、思い切って後者を選んでしまった。
お酒も入るだろうし、車だとどんなに時間が遅くなろうが帰宅出来てしまうから…
結婚指輪はバックの中にしまい込んである。
この前もそうした。
私に芽生え始めた後悔の念は、勇気がないだけのこと。
一線を越えてしまう不安。
そして自己嫌悪。
山吹色に染まるおとぎの世界の片隅で、急に現実的になる自分もイヤになった。
その時、背後で教授の声がした。
「すみません、遅くなって。かなり待ちました?」
私は振り返り、笑顔で答えた。
「今来たばかりだから大丈夫」
教授は、私の注文した空になったカップを見て言った。
「いや、かなり待たせちゃいましたね。罪滅ぼしをします。さ、行きましょう!」
私は立ち上がって、教授の後を追った。
ファストフードを出て舞浜駅へ向かうものと思っていた私の手を、教授は半ば強引に掴んで走り出した。
私は驚いて。
「ちょっと、どこに行くの?」
と、言ったけど、その向かう先はおとぎの国なのだと確信した。
教授は。
「早く早く」
と言いながら笑っている。
私は気恥ずかしさと、非日常的な空間にためらいながらも、教授の手をギュッと握り返していた。
日曜日の夕刻だけあって、ディズニーランド館内は大混雑していた。
パレード目当てのゲスト達は、お目当ての場所を陣取って、日常生活ではあり得ない、他人との距離感を会話で楽しんでいる。
私達はそんな風景をよそに、というよりも、私は教授に手を引かれ歩いているだけなのだけど、おとぎの世界に埋没しそうになっていた。
考えみたら、結婚後に夫とディズニーランドへ来た事もあった。
だけど仕事疲れが溜まった夫は、ミッキーマウスやドナルドが近づいてくれても苦笑いをするだけで、アトラクションにも乗りたがらなかった。
何でも行列がキライらしく、帰りの車の運転は私。
だったら無理して来なければ良かったと思っていた。
私は教授に問いかけた。
「ねえ、パレードは見ないの?」
教授は言った。
「美咲さん見たいですか?」
私は迷いながらはにかんでしまった。
教授は続けた。
「僕は、美咲さんと乗りたいアトラクションがあるんだけどなあ」
私は、その子供みたいに輝く瞳に降参した。
「任せるね」
そう言うと、自然と笑顔になっていた。
『イッツアスモールワールド』
私と教授はボートにゆらゆら揺られながら、流れて行く世界を旅していた。
教授は人形や風景を見ながら。
「あっ、ぜったいポリネシアだ!」とか 「ペルーかな、アルゼンチン?」 等とはしゃいでいた。
私が隠れミッキーをドンキホーテの近くで指差すと、教授は私の肩に手をかけて身を乗り出した。
彼の体臭を、すんなりと受け入れられた自分に驚いてしまった。
『ブルーバイユーレストラン』
パレードは始まっているけど、私はおとぎの世界に酔い痴れていた。
カリブの海賊を眺めながら、教授とふたりで同じ時間を共有している。
ネットの世界は嘘まみれでも、この時間はホンモノなのだ。
私の心に嘘はない。
嬉しくて楽しくて、ちょっとだけ遠くから、自分を客観視しようとしている私もいる。
ローストビーフを食べて、温かいパンを頬張りながら、スマホの写真を見せてくる教授の顔は幼い。
実家の猫の写真を自慢げに披露しながら教授は言った。
「こいつは暴れん坊で、抱かせてくれないんですよ。キスも嫌がるし、あ、でもそりゃそうですよね。僕は男だもん」
私は笑って。
「やだあーって言ってるんじゃない? 気持ち悪い~とか」
と、言うと、教授は私を見ながら言った。
「さすがにこいつはキス風船攻撃させてくれないし、引っ掻いてくるし」
その摩訶不思議なワードが気になって、私は教授に問いかけた。
「なに? キス風船って」
「ええっ、美咲さん知らないんですかキス風船? 猫好きには有名ですよ」
「意味わかんない。キス風船?」
「今度動画を送りますよ」
「見たい見たい。早くね、気になるもん」
現実世界を完全に隔離した日曜日、ゆったりと時が流れいった。
ディズニーランドを出て、新木場にあるバーで軽く飲む事になった。
教授は終電を気にかけてはくれたけど、私は成り行きに任せるつもりでいた。
過去の恋愛話や好みの異性の話。
テレビの話題やドラマの話もした。
かなり久しぶりの甘いお酒はジュースみたいで、私はかなりハイペースで飲んでいた。
気が付けば、終電の時間はなくなっていた。
バーの近辺に、真新しいビジネスホテルがあった。
地下フロアには温泉施設があって、普段なら利用したい所だけど流石に今日はやめておいた。
部屋に入ると、私の心臓激しく高鳴った。
先にシャワーを浴びて、ベッドにちょこんと座る。
喉がカラカラに乾いているのとほろ酔いと、ドキドキ脈打つ身体が熱い。
そんな私を見透かしてか、シャワーあがりの教授は冷蔵庫からビールを取り出してくれた。
再び乾杯をしてそれを一気に飲み干す。
格別に美味しかった。
教授は。
「疲れたでしょう? 散々付き合わせちゃったかな?」
と、言って、頭を軽く下げる仕草をした。
「全然。めちゃめちゃ楽しかったよ、ありがとう」
私が言うと、教授は嬉しそうに笑ってビールを飲み干した。
大きめのベッドに教授はゴロンと転がって。
「こうして野菜みたいに転がると、すぐに寝ちゃいそうですね」
と、呟いた。
私はその顔を見た。
教授の頬も僅かに赤らんでいる。
「顔が赤いよ」
と、私が言うと、教授は起き上がって私の隣にちょこんと座った。
「美咲さんは酔ってないの?」
「うーん、かなり酔っちゃったかな。暑いもん」
教授の手が、私の首筋に触れた、
ひんやりとして気持ちが良かった。
「ホントだ、美咲さんポカポカしてる」
そう言いながら、教授の両手は私の首筋から顎先に触れて、髪の毛、うなじ、頬を優しく撫でてくれた。
ゆっくりと顔が近づいてくる。
私は身体を強張らせた。
目を閉じる。
教授のやわらかな、まるでマシュマロみたいな唇が私の唇に触れた。
冷たい鼻頭同士も、くすぐったいくらいに触れ合う。私は思わず声を漏らしてしまった。だけど身体はまだ強張っている。
ベッドにキスをしながらふたりで転がる。
まるで野菜みたいに。
部屋は暗くなっている。
教授がさりげなくそうしてくれた。
私に覆い被さる教授の髪の毛が耳に触れる。
教授の息遣いがかすかに聞こえる。
その声は美しかった。
私の唇の輪郭だけを、そっと教授の舌先が撫でてくれている。私は自然に唇を開いていた。
教授は私の唇を自分の唇で塞いで、ふっと息を吹いた。
すると、私のほっぺたが風船みたいに膨らんだ。
私は驚いて教授を見る。
教授は笑っている。
「キス風船。やっちゃった」
教授はにっこり笑っていた。
私もなんだか可笑しくなって笑った。
「私は猫じゃないよ」
「ハムスターみたいになってました」
「バカ、もうっ」
私の強張ったカラダとココロが溶けていく。
教授は服を脱いで、私の服も脱がせてくれた。
火照る身体を重ね合わせながら、ふと感じた瞬間があった。
『私、淋しかったのかな』
と。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!