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「言葉になる前」
1|花子
ハヤトとのやり取りは、
終始、問題がなかった。
返信は早すぎず、遅すぎず。
敬語は柔らかく、距離は一定。
褒めすぎない。
踏み込まない。
「大丈夫な人だな」
花子は、そう判断した。
だから、違和感が出た瞬間も、
それを違和感だと認識しなかった。
――どうして、
私の返事を待ってるんだろう。
ハヤトは急かさない。
だが、待つ姿勢そのものが、
花子には少しだけ重かった。
「いつでも大丈夫ですよ」
「花子さんのペースで」
正解の言葉。
正解すぎる言葉。
花子は、返信文を打ちかけて、消す。
何が嫌なのか、分からない。
断る理由も、ない。
だから彼女は、
その違和感をなかったことにした。
「私が過敏なだけ」
「いいサービスなんだし」
そうやって、
言葉になる前で、
感覚をしまい込んだ。
2|葉芹(現在)
上川葉芹は、今日も誰かに紹介している。
「安心だよ~」
「変なことないし」
「むしろ生活整う感じ?」
彼女は、嘘をついていない。
実際、彼女の家庭は円満だ。
夫も穏やかで、
あのサービスを「外部の調整役」程度に認識している。
「頼れる人が増えた」
ただそれだけ。
だから葉芹は、
紹介をやめる理由がない。
困ってる人がいる。
良い選択肢を知っている。
勧める。
それだけの話だ。
彼女は、
拒否した人の沈黙を知らない。
「誘われたくない」
「でも気になる」
その間に落ちるものが、
何なのかを、
想像したことがない。
葉芹は、今日も善意だ。
3|津川
「……すみません」
津川進は、会議室で手を挙げた。
資料上は、
このプランは問題ない。
利用者満足度、
再契約率、
クレーム件数。
どれも優秀だ。
「一点だけ、確認させてください」
上司でもなく、
官僚としてでもなく、
一利用者としての声だった。
「このサービス、
“違和感を言語化できなかった人”
についてのデータ、ありますか?」
場が、少し静まる。
「明確な不満が出ていない以上――」
津川は、首を振った。
「出ないんです」
「だから、数字に出ない」
彼は、別の記憶を思い出していた。
あの案件では、
誰も抗議しなかった。
ただ、
静かに距離を失っていった人がいた。
「これは、
問題が起きる前に止める類の仕組みです」
誰かが笑った。
「津川さん、それは感想では?」
「はい」
津川は、認めた。
「一利用者の、感想です」
官僚としては、弱い。
だが、人間としては、
これ以上ない根拠だった。
「だからこそ、
拡大には待ったをかけたい」
彼は、資料を閉じた。
「過去に、
“問題がなかったから通した案件”
それで、後から取り返しがつかなくなったことがある」
名前は出さない。
数字も出さない。
それでも、
津川の声には、
確かな重さがあった。
花子は、まだ言葉を持っていない。
葉芹は、今日も善意だ。
津川は、立場を越えて止めようとしている。
誰も悪くない。
だからこそ、
この仕組みは、
いちばん厄介だった。