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たった数年で街並みが変わるはずはないのに、高橋の目に映る景色は、青年と別れてからどれも色褪せて見えた。
そこまで通い慣れているはずがないのに、すんなりと店までの道のりを迷いなく歩くことができるのは、あのとき青年に優しくされた記憶があるせいなのか――あるいは、生まれてはじめて切ない別れを経験したからなのかはわからない。
最後にかわした会話を思い出しつつ、自分と青年を見えない糸で繋いでいる、店の存在が気になった。
(この不景気の煽りを受けて、潰れていなきゃいいが――)
そんなことを考えながら、元恋人が経営する店に向かうべく、古ビルのコンクリート製の階段を靴音を立てながら上る。
2階のフロアの一番手前にある、漆黒に塗られた扉の前に立ちつくし、金色の文字で『Ambitious』と表記された看板があることを確認した。ちゃんと店が存続していることに、高橋は思わず微笑んでしまう。
久しぶりの来訪に、あまりいい顔をしないだろうなと予想し、扉を勢いよく開けて足を踏み入れる。扉を開けた振動で、ドアベルが盛大に店内に鳴り響いた。
「いらっしゃ~い、本日第一号のお客様っ!」
そんなドアベルの音に負けない声を出した大柄な背中が、高橋の目に留まった。
「…………」
開店準備が間に合っていなかったのか、こちらに背中を向けたまま、忙しなく動く姿を黙って見つめる。
背後から何の反応もないことを訝り、動かしていた手を止めて、恐るおそる振り返った瞬間に、忍の小さな瞳が自分を捉えた。
「ウゲッ! 健吾っ、なにしに来たんだよ?」
己の目で確認するなり、甲高い声が素の声に戻った。しばらくぶりに聞いたその声に、高橋は懐かしさを覚える。
「なにしにって、客として来たんだけど」
5席あるカウンターの左端に堂々と腰かけて、困惑の表情を滲ませている元恋人を、微笑み混じりに眺めてやった。
「あ~もぅ! いつもならしない失敗をしたり、準備に戸惑ったりしたのは、疫病神のアンタが来ることを表していたのね。ムカつくわ!」
筋肉質のごつい躰を覆い隠すワインレッドのワンピースを翻しながら、他にも何かぶつぶつ文句を言い続ける。ほどなくしておしぼりと小鉢を手にして戻ってくるなり、乱雑にそれらを置いていった。
「ハイボールを頼む」
「はいはい!」
「綺麗なメイクができるというのに、どうしてそんな中途半端な顔を晒して、わざわざ笑いをとっているんだか。もったいない」
店の開業当初はそれなりのメイクをして、顔だけは女になりきっていたはず。だが青年を紹介するために来店したときには、崩れた状態と称してもいいくらいのメイクを施していた。
あまりの変貌ぶりに、そのとき訊ねられなかったことを、高橋は思いきって口にした。
「仕事のかけ持ちが忙しくて、メイクまで手が回んなくなっちゃったのよ。それに、笑いをとってるつもりはないんだからね」
忍は相変わらずプリプリした表情を崩さずに、カウンターで頬杖をついた高橋を食い入るように見つめる。
「セミロングのかつら、ちょっとだけズレてるぞ」
「嘘っ!?」
「嘘だ」
頭に手をやり、どこかに向かいかける慌てた横顔を見ながら、本当のことを言ってやった。
「本当にアンタ、昔から変わらないのね。誰のせいで、私がこんなふうになったと思ってんのよ」
睨み殺すような眼差しから逃れるべく、目の前から視線を外し、渡されたおしぼりで両手を拭う。
「私の恋心を思う存分に利用して、好き勝手やって飽きたらポイ。そんなことをされたら、誰だって人間不信になるわよ!」
「……尻から太ももにかけてのラインの色っぽさは、忍が一番だった」
「ふんっ! 今更持ち上げたって、騙されないわよ」
内に秘めた怒りを示しているのか、胸の前に腕を組み、鼻の穴を広げた状態で見下ろしてくる視線に合わせた。
「傷つけて悪かったな」
高橋の告げたセリフを聞いた瞬間、小さな瞳がこれでもかと大きく見開かれた。
「健吾、何を言ってんだよ。おまえはそんな奴じゃないだろ」
組んでいた腕が力なく解かれて、躰の脇に控える。珍しいものを発見したような驚きを表す忍に向かって、糸のように目を細めながら苦笑いを浮かべた。