テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
鬼子と灯す道/episode02
鬼の子は、泣いていることに
気づかれないように、
そっと袖で目元をこすった。
けれど男は、
何も言わずにその小さな背を見守っていた。
夕暮れの空が、
少しずつ紫に沈んでいく。
その色を見て、男がぽつりと呟く。
「……夜が来るな」
その言葉に、子鬼の肩が小さく揺れた。
「……夜は、こわい?」
男はしばらく黙っていた。
そして、遠くを見るように目を細める。
「昔はな。
でも今は……
守るものがある夜は、悪くない」
子鬼はその言葉を胸の中で転がす。
守るもの。
それは、自分のことなのだろうか。
その夜、二人は茶屋の裏にある
小さな納屋で眠った。
月明かりが、
隙間から床に細い線を描いている。
子鬼は、眠れなかった。
男が起きている気配を感じて、
思い切って小さな声で聞いた。
「……お兄さんは、
どうして鬼をころさないの?」
男は、すぐには答えなかった。
代わりに、
ゆっくりと息を吐く音だけが響く。
「……昔、守れなかった子がいた」
その一言は、あまりにも静かで、
でも夜よりも深い影を落とした。
「鬼か、人かなんて関係なかった。
ただ……小さくて、泣いてて……
助けてって、言ってた」
子鬼は、思わず布を握りしめた。
「だから、決めたんだ。
夜が来るたび、俺は立つ。
同じ後悔を、もう二度としないために」
納屋の外で、風が鳴いた。
夜が、完全に訪れていた。
そのとき__
遠くで、微かな笛の音がした。
男の表情が、ほんの一瞬だけ強張る。
「……迎えが来た」
子鬼は飛び起きた。
「え……? だれ……?」
「……君の、家族だ」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
嬉しいはずなのに、
なぜか喉の奥が痛かった。
峠を越えた先、
霧の中から現れたのは、
数人の鬼族。
そして__
一人の、痩せた女鬼。
その目が、子鬼を見つけた瞬間、
すべてが崩れ落ちたように泣き出した。
「……ごめんね……遅くなって……」
子鬼は、迷いながらも母の胸に飛び込む。
懐かしい匂い。
確かに、帰るべき場所。
母鬼は、男に深く頭を下げた。
「この子を……守ってくれて、ありがとう」
男は、首を横に振った。
「……守られたのは、俺の方だ」
夜明け前。
別れの時間は、あまりにも早かった。
子鬼は、何度も振り返る。
霧の向こうに立つ、あの背中。
「……また、会える?」
男は、夜が溶けていく空を見上げてから、
静かに微笑んだ。
「夜は、いつもそこにある」
それだけ言って、
彼は踵を返した。
——翌日。
村では、また噂が囁かれる。
「夜守りを見た」
「夜明け前、鬼の群れが山へ帰るのを見た」
けれど誰も知らない。
その夜、峠の上で__
一人の男が、
深い傷を負って倒れていたことを。
朝日が昇る頃、
そこに人影はなかった。
ただ、地面に残された足跡が、
夜へと続いていただけだった。
そして今日もまた、
村の子どもたちは、
何事もなかったように笑っている。
鬼に攫われる子は、いない。
なぜなら__
名もなき”夜守り”は、
今もどこかで、
誰にも知られず、
夜に立ち続けているのだから。
コメント
3件
家族愛尊い、