翌日。
午前11時。
都心に近いホテルで麗子さんと待ち合わせた。
土曜日だけあってロビーにも人が多い。
みんなきちんとした身なりの人ばかりで、中には和装姿の女性も。
時間になっても現れない麗子さんに電話もメールも繋がらず、しかたなくソファー席に座った私の横を振り袖姿の女性が早足で通り過ぎた。
もしかしてお見合いかしら。
休日のホテルで顔合わせなんて定番だものね。
まあ、私には無縁だけれど。
「すみません、お待たせしました」
向かいの席からかわいらしい声が聞こえ、
「いえ、私達も今着いたところですから」
柔らかい口調の男性。
どうやら本当にお見合いの席らしい。
見るつもりはなかったけれど、振り袖姿の女性に目がいった。
さすが一流ホテルのロビーだけあって席もゆったり配置されているから、向かいの席と言っても距離がある。
今だって座っている男性の背中と遅れてやって来た振り袖の女性が見えるだけ。
その他は柱に隠れてはっきりとは見えない。
「あなた、何やっているの」
慌ててやって来た女性を注意する中年女性の声が聞こえた。
「ごめんなさい」
きっとご親子なんだろう。
「本当に申し訳ありません」
中年女性の謝る声がして、
「本当にもういいですから」
背中しか見えない男性が、手を上げて止めている。
声の若さからして、この人がお見合いの相手みたいね。
***
「普段着物を着ることがないもので、トイレに行こうとしたらどうしたら良いかわからなくなってしまって、」
全く悪びれる様子もなく、女性は口にする。
クスッ。
さすがに初対面のお見合いの席でそんな話をしなくてもと、笑いそうになった。
かわいいなあ。
離れているからぼんやりしか見えないけれど、まだかなり若そう。
もしかしたら、学生さんかな?
「もう、華子。あなたって人は」
同席したお母様の方が焦っているのが、余計に面白い。
「どうか気になさらずに。素直で楽しいお嬢さんだ。こいつは少し堅物で、真面目すぎるところがありますから、ちょうど良いでしょう」
柱の向こうから聞こえてきた中年男性の声。
そうよね、こういう天真爛漫な感じって男の人は好きだものね。
私のどこをさがしてもなさそうなかわいらしさ。
「なあ徹、お前もそう思うだろ?」
黙ったまま話そうとしない若い男性に、話を振るおじさま。
「ええ、そうですね」
穏やかだけれど、感情のこもらない返事。
その瞬間、私の鼓動が大きくなった。
徹?
そしてこの声。
ソファー越しに見える背中も、全てあの人に似ている。
「嘘」
無意識に、私は呟いていた。
***
それからしばらく、楽しそうにお茶をする席を眺めていた。
華子さんと呼ばれた女性は、緊張する様子も見せずに、
「趣味は乗馬で、休日は友達と買い物に出かけることが多いんです。徹さんご趣味は?」
と質問をする。
それに対して、「仕事が忙しくて、なかなか休日が取れないんです」と返事をする徹さん。
「それはいけませんね」と言いながら、華子さんはパクパクとッケーキを食べて見せる。
この時点で、私は背中を向けた男性が徹さんだと確信を持った。
だからこそ余計にことの成り行きが気になって、動けなかった。
徹さんがお見合いをしようと、誰と付き合おうと、私に止める権利はない。
私達はきっと、友人ですらないんだから。
でも、気持ちがザワザワする。
いつのまにか、私は徹さんの背中を睨み付けていた。
もしも私達の出会いが運命だったなら、徹さんは振り向いてくれるかもしれない。
何の根拠もなくそんなことを思った。
お願いこっちを向いて。
私を見て。
念にも似たものをぶつけた。
その時、
「あの、お客様?」
耳元から聞こえたホテルマンの声。
「はい」
「お水が、」
「あ、ああぁぁ」
気付かないうちにコップを傾けてしまっていたらしい。
***
気がつき慌てたときにはもう遅く、コップのお水はテーブルにこぼれ、水滴が私のスカートにもかかっている。
「ああ、やっちゃった」
これって私の悪い癖。
1つのことに集中すると、周りに気が行かなくなる。
こんなことでよく医者になれたなあって思うけれど、不器用な私は2つのことを同時にすることができない。
「お客様、大丈夫ですか?」
駆け寄ってきたウエイトレスにタオルを渡され、私はスカートの水滴を拭き取る。
さっきまで向かいの席の女の子を笑っていたくせに、今は私の方がずっと恥ずかしい。
ホント、何をやっているんだか。
「よろしければ、お席を変わられますか?」
テーブルの上が水たまりになったのを見て、ホテルマンが言ってくれるけれど、
「いえ、大丈夫です」
多少ウエットな感じはあるけれど、テーブルは綺麗に拭いてもらったし、これ以上目立ちたくなくて辞退した。
「では、コーヒーのお替わりをお持ちします」
すでに口を付けてしまったコーヒーにも水はかかっていたため、いつの間にか下げられていた。
「すみません」
もう、恥ずかしくて顔が上げられない。
全部私の責任なのに・・・
***
ジッと下を向き、足元と携帯を交互に見た。
麗子さんとの約束の時間は、すでに過ぎている、
できればここを離れたいけれど、待ち合わせているからにはそうもいかず、
「困ったな」
運ばれてきた2杯目のコーヒーを一口飲み込んで、フーと息を吐いた。
あと10分待って麗子さんが来なければ、ここを出ようと思っていた時、
「あの、徹さん。どうかなさったんですか?」
お見合い中の女性の訝しむ声。
ん?
その声に反応するように、私は顔を上げた。
「ぅ、そ」
そこには真っ直ぐに向けられた視線。
怒っているかのような強い眼差し。
それは、会いたくて会いたくてたまらなかった人。
彼はジッと私を見つめたまま、少しだけ表情を緩めた。
「の、え」
唇だけが小さく動いた。
「徹」
誰にも聞こえない声で、彼を呼ぶ。
ほんのわずかに、彼の口角があがったことに気づいたのはきっと私だけ。
私はにっこりと微笑みかけた。
***
その後の展開は、驚くくらい早かった。
徹さんが席を立ち、頭を下げる。
それを見た瞬間、私も立ち上がっていた。
「申し訳ありません」
何度も口にして、深々と腰を折る徹さん。
唖然とした女性たちは言葉もなく、同席していたおじさまは睨むように彼を見つめている。
「すみません」
一旦席から離れ、もう一度おじさまに頭を下げた徹さんは歩き出す。
後ろを振り返ることもなく、真っ直ぐに前を向いたまま。
その表情はどことなく険しくて、怖い気さえする。
それでも、私はできる限りの笑顔で彼を待った。
もう、逃げない。
私は彼といたい。
たとえ何かを失うことになっても、離れない。
「乃恵」
「はい」
ためらうことなく私の腕をつかみ、グッと引き寄せる徹さん。
公衆の面前でも、不思議と恥ずかしさは感じない。
それだけ、彼に触れたい気持ちが強かった。
「行こう」
肩を抱かれ、私も歩き出す。
時折、周囲の視線が気にはなった。
何しろ、私はお見合いの席から彼を奪ったんだから。
でも、いいの。
この行動に後悔はない。
***
ホテルを出て、街を歩き、タクシーに乗り込んだ。
このまま徹さんのマンションに向かうのか、それともお兄ちゃんのマンションに送ってくれるのか、どちらにしても話ができるところへ行くんだろう。
そう思ったから、行き先を聞こうとも思わなかった。
しかし、タクシーは高速に乗りスピードを上げて走り続ける。
15分。
30分。
さすがにいくつかのサービスエリアを通り過ぎたところで、不安になった。
徹さんは一体どこに行くつもりだろう?
明日は日曜日だから、お休みなんだろうか?
「帰りたい?」
キョロキョロと車窓を見ていた私に、徹さんが聞いてきた。
「うんん。大丈夫、徹さんと」
一緒にいたいと言おうとして、言えない。
こんな時に、自分の思いをただぶつけるのは無責任な気がした。
今の徹さんは、とんでもない窮地に立たされているはず。
だって、お見合いの席から逃出してきたんだもの。
そして、その責任は少なからず私にある。
私があの場に現れなければ、こんなことにはならなかったんだから。
「徹さん、ごめんなさい」
「何が?何で乃恵が謝るんだ?」
「だって、」
きっと、徹さんにとって大切な席だったはずなのに。
この先とんでもない展開が待っているかもしれないのに。
「俺は、自分の意志で逃げてきたんだ。そのことに乃恵は責任を感じる必要はない」
「でも、」
「もういい。何も言うなっ」
ピシャリと言って、徹さんは口を閉ざしてしまった。
***
1時間近く走って、着いたのは小さな温泉街。
何件か旅館が並ぶ中で、一番立派な宿の前でタクシーが止る。
「ここ?」
思わず見上げてから、徹さんに声をかけた。
「ああ。知り合いの宿なんだ」
「知り合い?」
少しだけ不安になった。
お見合いの席を途中で飛び出した徹さんを、きっとみんなが探しているはず。
知り合いの宿に来てしまったらすぐに見つかってしまうんじゃないだろうか?
「大学時代の同級生の実家だから、誰にも見つからないはずだ」
「そう。それならいいけれど」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
ほぼ手ぶらでやって来た私達を、笑顔で迎えてくれた女将さん。
「すみません、お世話になります」
徹さんと並んで挨拶をした。
その後、女将さんに部屋へと案内された。
広い敷地内に点在する離れの個室は部屋ごとに露天風呂もあり、ゆったりとした作りの二間続き。
畳敷きの和室と、その奧にはダブルベッドの配置されたおしゃれな寝室がある和洋室。
「高そうな部屋」
女将さんがいなくなってから、つい呟いてしまった。
「いいじゃないか。たまには贅沢しよう」
「う、うん.」
私達は今日、こんな遠くまで逃げてこなくてはならないようなことをしてしまったんだ。
普段の金銭感覚で言うと贅沢すぎて気が引けるけれど、今は考えないでおこう。
まずはこれからのことを考えるのが先だから。
****
「ここまで来てしまったこと、乃恵は後悔していない?」
仲居さんが入れていってくれたお茶を飲みながら、徹さんが私を見た。
「いいえ、私は後悔はしてない。でも、」
「でも?」
「今回のことで、徹さんが困ったことになるんじゃないかと」
心配でしかたない。
私なんて今日は最初から休みだし、明日も勤務のシフトに入っているわけではない。
最悪連絡さえ入れれば、しばらく休みを取ることもできると思う。
もちろん、その後溜った仕事のツケが待っているんだけれど。
「確かにそうだな。何しろ、社長同席の見合いの席をぶちこわして逃げてきたんだから。困った事態ではあるな」
徹さんは飄々とした口調で言っているけれど、一大事じゃない。
仕事がらみのお見合いだったなら、今後の仕事にも尾を引きそう。
「今からでも帰った方がいいんじゃ」
「バカ、どっちみちもう遅いよ。それに、タクシーに乗り込んだ時点で携帯を切ったんだ。恩義ある社長に着信拒否を貫いた以上、俺は戻るつもりもない」
「・・・ごめんなさい」
やはり私が悪い気がして、謝ってしまった。
「何度も言わせるな。乃恵は悪くないんだから、謝るな」
「でも」
それでもまだ口を開こうとする私を、
「もういい」
徹さんがギュッと抱きしめる。
なぜか、私は抵抗しなかった。
***
「なあ、乃恵」
息が掛かりそうなくらい至近距離で、徹さんの声がする。
恥ずかしくて顔をそらしたいのに、頬に添えられた徹さんの手に阻まれて動くこともできない。
きっと今、私は耳まで真っ赤になっていることだろう。
「今だけ、全てを忘れよう」
「え?」
「お互いの仕事のことも、今後のことも、一旦忘れよう」
「そんなこと」
社会人である以上そんな無責任なことはできない気がする。
「俺はあの時、乃恵といたいと思った。たとえ全てを失っても、乃恵のことを手放したくはないと思ったんだ」
真っ直ぐに目を見ながら、一言一言話す徹さんの言葉に嘘は感じられない。
「私も同じ。たとえお兄ちゃんと絶縁になっても、徹さんといたいから」
「乃恵」
一瞬驚いたように目を見開いた徹さんが、ゆっくりと唇を重ねてきた。
最初は触れるだけのキス。
チュッと音をたて一旦離れたと思ったら、今度は心を惑わせるような濃厚なキスが降ってきた。
深くなる口づけとともにお互いの感情も流れ込んでくる。
私だって、キスが初めてなわけではない。
その先だってすでに経験はある。
でも、今日は初めてのように心がざわついた。
まるで駆け落ちのように逃げてきた背徳感が気持ちをかき乱したのかもしれないし、いつも冷静で落ち着いた印象の徹さんの情熱的な部分を見て触発もされた。
****
「抱いてもいい?」
ベットに運ばれた私に覆い被さり、頭上から見下ろす徹さん。
今さらと思いながら、
「はい」
私は頷いた。
もう、抗うつもりはない。
私も徹さんをもとめている。
でも、電気を付け障子まで開け放たれたこの部屋は明るすぎる。
「お願い電気を消して」
さすがに羞恥心から、お願いした。
すんなり電気を消してくれると思っていた。
しかし、
「ごめん」
えっ?
予想外の答えに目を見開く。
「俺、明かりがないと眠れないんだ」
「はあ?」
何を子供みたいなって思ったけれど、冗談ではなさそうな顔を見ては言えない。
「子供の頃、1人で眠っていた俺におやじの死が知らされたんだ。お袋が亡くなったのも夜中だった。だからかな、今でも暗闇が怖い」
怖い物なんて何もなさそうな徹さんに、そんなウィークポイントがあるなんてびっくり。
「わかったわ。いいよ、このままで」
そんなトラウマを聞いてしまったら、反対なんてできない。
***
優しく、でも情熱的に、私達は体を重ねた。
途中豪華な夕食を挟みながらも、徹さんは私を解放してはくれなかった。
結局日付が変わり、『お願い、もう無理』と私が音を上げるまで私達は愛し合った。
その晩、興奮のせいか部屋の明るさのせいか、なかなか寝付けない私はすぐ横で眠る徹さんの寝顔を見ながら考えを巡らせた。
私といることで、徹さんは幸せになれるんだろうか?
きっと、無理だよね。
まず、お兄ちゃんが許すはずがない。
私のせいで、お兄ちゃんと徹さんの親友関係も壊れてしまうだろう。
そして、今回のお見合いが社長さんの肝いりだったとすれば、徹さんの仕事だって影響が出る。
1度だけ連れて行ってもらった鈴森商事で見た仕事中の徹さんは、生き生きしていて素敵だった。徹さんから仕事を奪うようなまねはしたくない。
それに、私は病気持ちで、どれだけ生きられるかもわからない。
子供だって生めないから、徹さんに家族を作ってあげることもできない。
なんだか、いいことなんて1つもない。
気がつくと、涙が頬を伝っていた。
何度ぬぐっても涙が止ることはなく、眠れないまま朝を迎える事になった。
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