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約束の時間は午後五時。私は駅前で所在なげに立っていた。
鏡に映る自分は、いつもの警察官としての南葵ではなかった。ネイビーのタイトなスラックスに、柔らかなアイボリーのサマーニット。その上に、薄手のトレンチコートを軽く羽織っている。刑事としての鎧であるグレーのスーツを脱ぎ捨てると、まるで指紋を消された証拠品のように、自分がひどく無防備な存在になった気がした。
「……やっぱり、落ち着かない」
左手首の、父から譲り受けた古い腕時計に指を這わせる。これだけが、今の私を地面に繋ぎ止めている唯一の錨だった。
街を行き交う人々は、それぞれが小さな幸せや悩みを抱え、五月の穏やかな夕暮れに溶け込んでいる。仕事も、事件も、謹慎という重い鎖も、ここには存在しないかのようだった。
「お待たせ、南さん。……いや、プライベートだし、葵さんと呼ぼうかな」
聞き慣れた、少し芝居がかった声が耳に届いた。振り返ると、そこには柊さんが立っていた。
彼はいつものグレーのコートではなく、上質なチャコールグレーのジャケットに、ノーネクタイの白いシャツというラフなスタイルだった。だが、その着こなしは驚くほど洗練されており、街灯に照らされた彼の横顔は、やはりこの世界の住人ではないような、浮世離れした美しさを放っていた。
「……柊さん。その格好、詐欺師っぽくないですね」
「僕はいつだって、その場にふさわしい役を演じているだけだよ」
柊さんは私の目の前で足を止めると、ゆっくりと私の全身を眺めた。その視線は、事件現場で綻びを探す時のような冷徹なものではなく、どこか柔らかく、それでいて射貫くような熱を帯びていた。
「驚いたな。君がそんなに柔らかい色を着こなせるとは思っていなかった。……武装を解いた君は、僕が思っていたよりもずっと、危うくて、目を離せない」
「……お世辞はいいです。行きましょう、お腹が空きました」
私は赤くなりそうな頬を隠すように、足早に歩き出した。背後で柊さんが「照れてるね」と楽しそうに笑いながら、私の隣に並ぶ。彼と肩を並べて歩くのは、現場に向かう時とは全く違う感覚だった。
私たちは、静かな通りへと足を向けた。
夕闇が迫り、通りのカフェやセレクトショップからは、温かみのあるオレンジ色の光が溢れ出している。風は心地よく、街路樹の若葉がさらさらと音を立てていた。
「どうだい、事件から離れて過ごす休日は。世界がいつもより少しだけ、静かに見えないかな?」
柊さんが、ポケットに手を入れたまま、悠然とした足取りで私に問いかけた。
「……正直に言って、耳鳴りがするくらい静かです。いつもなら無線の音や、小宮さんの怒鳴り声、積み上げられた報告書の紙が擦れる音が、頭のどこかで鳴っているのに」
「それは一種の職業病だね。刑事の人生は、常に誰かの悪意の中に置きすぎている。……たまには、こうして何の意味もない風の音や、他愛ない街の喧騒に耳を傾けるのも、悪くないだろう?」
柊さんの言葉は、不思議と私の強張った心を解きほぐしていく。彼は決して、誘拐事件の話や、私の謹慎の原因になった銃口の話には触れなかった。
「……柊さんは、こういう場所を歩く時、何を考えているんですか? やっぱり、通りすがりの人の財布の中身とかを予想してるんですか?」
「失礼だな。僕はもっと高尚なことを考えているよ。例えば、あそこのテラス席で笑っているカップルの、どちらが先に隠し事を明かすか、とか」
「結局、それじゃないですか」
「男性はソワソワして、自分のポケットに意識がいってるし、女性はそんな男性の話に集中しすぎている。プロポーズする予定だね。女性もそれを感じ取っている」
思わず吹き出すと、柊さんも声を立てて笑った。その笑顔は、いつもの不敵な仮面を脱ぎ捨てた、一人の青年のようにも見えた。
私たちは、あるブティックのショーウィンドウの前で足を止めた。そこには、宝石店で見たものとは違う、日常を彩るための鮮やかなアクセサリーが並んでいた。
「……君には、ああいう華やかなものも似合うと思うよ」
柊さんが、ガラス越しに腕時計を指差した。
警察官の南葵には一生縁のないような、繊細で、遊び心のあるデザイン。
「私には、今の腕時計で十分です」
「頑固だね。でも、その頑固さが君の魅力でもある。……さあ、あそこの角を曲がった先に、僕が見つけた隠れ家があるんだ。君を少しだけ満足させてあげられるかもしれない」
大通りから一本入った路地裏。蔦の絡まるレンガ造りの建物の前に、看板も出していない小さな扉があった。
柊さんが慣れた手つきで扉を開けると、中からは香ばしいスパイスの香りと、古いジャズの調べが、夜の静寂を縫うように漏れ出してきた。
「……ここですか?」
「ああ。嘘みたいに美味しい店さ」
柊さんは、エスコートするように私の背にそっと手を添えた。そのわずかな接触に、銃声の記憶が一瞬だけ遠のいていく。
私は、彼が用意した世界の入り口で、深呼吸をした。事件のない夜。銃を持たない右手。そして、隣にいる掴みどころのない詐欺師。
私は、重い扉の向こう側へと、一歩足を踏み入れた。今夜だけは、自分の過去も、正義も、すべてこの夜の闇に預けてしまってもいいのではないか。そんな、甘くて危険な誘惑が、私の胸をかすかに震わせた。