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炭酸@サイダー🌠💙🎧️
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二月十一日、午後十一時半。
仁人は、コーヒーショップのカウンターの前に、立っていた。
「ホットを一つ。それを、保温できるタンブラーに」
店員は、少し不思議そうな顔をした。
「タンブラー、お持ち込みですか」
「いえ。そちらの棚の、ステンレスのを」
仁人は、棚のいちばん端の、無地のものを指した。濃いグレー。飾りがない。
会計を済ませる。もう一つ、紙コップのブラックも頼んだ。
「ぬるめで」と付け足すと、店員が瞬きをした。
「……ぬるめ、ですか」
「はい」
紙コップは、ほとんど湯気の立たない温度で、渡された。
店を出る。二月の夜の風が、頬を刺した。
昨日、あの会議室で、言えなかったことがあった。
ありがとうございます、とは言った。何度も。けれど、足りなかった。
買い戻し条項の、三名の名義。株主間契約の一行。あの人が、徹夜で、組み上げた、あの設計に。
二年間、自分が、抱えていたものへの答えだった。
言葉では、返せなかった。だから、今夜、ここに来た。
タクシーの中で、タンブラーを、膝の上に載せた。熱が、ステンレス越しに伝わってくる。
冷めないうちに。
二十八階は暗かった。
エレベーターを降りると、フロアの大半の灯りは、落とされていた。
島型のデスクの列。整然と並んだ椅子。窓の外に、東京の夜景が、静かに広がっている。
ただ、奥の一角だけ、灯りが点いていた。
ゲストパスを首から下げて、仁人は、そちらに歩いた。足音が、カーペットに吸われた。
会議室の、ガラスの壁の向こうに、勇斗がいた。
ホワイトボードの、前に立っていた。
ジャケットは椅子の背に。ネクタイは緩められて、片方の端が、シャツの胸に垂れている。
袖は、肘まで捲られていた。少し、皺が寄ったシャツ。髪が、額に落ちている。
三日、徹夜した人間の、顔だった。頬に、うっすらと髭が、影を作っていた。
片手にペン。もう片方の手が、髪を掻き上げる。ぶつぶつ、何かを呟いている。
仁人は、扉の前で、足を止めた。
ホワイトボードには、図が、描いてあった。中央に、Lueur。その周りに、矢印。
そして、隅に小さく、書かれた、一行。
『買い戻し条項:創業者三名』
三名の字の、上に、丸が、つけてあった。何度も、なぞった、跡。
仁人の胸が、静かに鳴った。
この人は、この一行を、何度なぞったのだろう。徹夜の夜中に。誰も見ていない場所で。
扉に、手をかけかけて、やめた。
引き返そうか、と思った。この光景を、見ただけで十分だった。邪魔をしては、いけない。
その時、勇斗が、ペンを止めた。
ゆっくり、こちらを向いた。
目が合った。
「……仁人さん?」
勇斗が、扉を開けた。
「どうして。……いつから」
「今、着いたところです」
仁人は、タンブラーを差し出した。
「差し入れです」
勇斗は、それを見て、それから、仁人を見た。
「……これ」
「熱いままです。保温になっています」
仁人は、平らな声で言った。
「冷めないうちに」
勇斗の口が開いた。それから、ゆっくり笑顔になった。疲れの奥から、滲むように。
「……ありがとうございます」
タンブラーを受け取る。蓋を開ける。湯気が、立ち上った。
一口、飲んだ。
「……うまい」
小さく言った。目が細くなった。
「ちょうど、いい熱さです」
「よかった」
仁人は、自分の紙コップを、両手で包んだ。ぬるめのブラック。
二人は、会議室の長机の端に、並んで腰を掛けた。
窓の外に、夜景が広がっている。光の粒が、遠くまで続いていた。
「後輩は」
「仮眠室です。三十分前に落ちました」
「勇斗さんは」
「あと少しで、寝ます」
「……ここ数日、そう言い続けていますよね」
「ばれてますか」
勇斗は笑った。
「でも、楽しいんです」
「……楽しい、ですか」
「はい。数字が、繋がっていくのが。あの三人の、輪郭が、見えてくるのが」
勇斗は、ホワイトボードを見つめた。
仁人は、その横顔を見ていた。
「昨日は」
仁人が、口を開いた。
「きちんと、お礼を言えませんでした」
「言ってもらいましたよ」
「足りません」
勇斗は、こちらを向いた。
「足りない、ですか」
「はい。あれでは」
仁人は、紙コップを見つめた。
「あの一行を、見て思ったんです。二年間、私が、一人で抱えていたことに。あなたが、答えをくれたと」
「……」
「言葉が、見つかりませんでした。だから、こういう形で」
タンブラーを示した。
「……安い、お礼ですが」
「安くないです」
勇斗は、即座に言った。
「俺にとっては、いちばん、効きます」
その声が、あまりにも真っ直ぐで、仁人は、目を逸らした。
「……何でしたら、足りますか」
勇斗が、冗談めかして言った。
「……分かりません」
仁人は、正直に答えた。
「何を、返せば足りるのか。……分かりません」
沈黙が落ちた。
仁人は、立ち上がった。
「そろそろ、失礼します。あなたは、休んでください」
歩き出そうとして、足が止まった。
勇斗の肩が、目に入った。
シャツの、皺の寄った肩。
三日間、何度も髪を掻き上げ、机に向かい、ペンを走らせた、その肩。少し、丸まっていた。
疲れている。
仁人は、無意識に、手を伸ばしていた。
その肩に、触れた。
シャツ越しに、体温が伝わってきた。硬く、張った筋肉。凝り固まっている。
「……少し、休んでください」
小さく、言った。
「はい」
勇斗の声が、低かった。
仁人の手は、肩から、離れなかった。離そうとしなかった。
指が、シャツの生地の上で、少しだけ動いた。撫でるように。
勇斗がその手の上に、自分の手を重ねた。
温かかった。
見上げる、勇斗の目。夜景の光が、その瞳に小さく映っていた。
疲れて、赤くなった目の縁。少し荒れた唇。
「……仁人さん」
「……はい」
「手、離さないんですか」
「……離せないんです」
自分の口から出た言葉に、仁人は驚いた。
勇斗の目が、見開かれた。
それから、ゆっくり細くなった。
顔が、近づいた。
いや、自分が、近づいたのか。分からなかった。
二人の間の、距離が、静かに縮んでいた。吐息が、混じる。勇斗の、コーヒーの香り。
窓ガラスに、二人の影が映っていた。重なりかけた、二つの影。
唇が触れる、直前だった。
「勇斗さん、ここの数字、間違ってま……」
会議室の扉が、勢いよく開いた。
「……あ」
後輩が立っていた。
寝癖のついた髪。片手にノートPC。目を、大きく、見開いて。
仁人は、電光石火の速さで、手を引っ込めた。三歩、後ろに下がった。
勇斗は、椅子から、半分、滑り落ちかけた。
沈黙。
三人が、三人とも固まっていた。
「……す、すみません」
後輩が、言った。声が裏返っていた。
「あの、数字が、その、いえ、後で、いいです。全然。後で」
「待て」
「いえ、失礼しました。見てません。何も。仮眠室に、戻ります」
「待て、お前」
「見てません!」
後輩は、ノートPCを、抱えて、扉から消えた。扉がばたんと、閉まる音。
静寂。
仁人は、壁に背を向けて、立っていた。耳が、燃えるように熱かった。
勇斗が、机に突っ伏した。肩が震えている。
「……勇斗さん」
「……すみません」
勇斗は、顔を上げた。目尻が、少し赤い。笑いすぎて。
「あいつ、間が悪すぎる」
「……笑いごとでは、ありません」
「分かってます。分かってますけど」
勇斗は、腹を抱えた。
「絶対、明日、からかわれる」
「……」
「でも、まじで、最高のタイミングで」
「最悪の、タイミングです」
仁人は、平らな声で言った。けれど、口の端が、勝手に上がっていた。
堪えきれなかった。
声を出して、笑ってしまった。
二人で、笑った。
会議室に、二人分の笑い声が響いた。窓の外の夜景が、静かに瞬いていた。
エレベーターの前で、勇斗が見送ってくれた。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ」
「これで、あと、もう三日は、戦えます」
「……休んでください、と、言いました」
「善処します」
勇斗は笑った。
エレベーターが着いた。
扉が開く。仁人は乗り込んだ。
「仁人さん」
呼ばれて、振り返る。
勇斗が、扉の前に立っていた。タンブラーを持ったまま。
「今度は、俺が、差し入れしますから」
「……結構です」
「します」
扉が閉まりかけた。
仁人は、少し迷って、言った。
「……ぬるめで、お願いします」
勇斗の目が、見開かれた。
扉が閉まった。
一人になった、エレベーターの中で、仁人は、自分の右手を見た。
さっき、勇斗の手が、重なった手。
まだ、温かかった。
何も、起きなかった。触れるだけで、終わった。けれど、あの一瞬、確かに、何かが越えかけた。
もし、あと一秒。
あの後輩が、あと一秒、遅れていたら。
仁人は、首を横に振った。それから、小さく笑った。
エレベーターの鏡に、映った自分の顔が、見たことのない顔をしていた。
三徹の仕事がノってる男に、夜、差し入れ持っていくのは、キスされに行くようなもんっていう話。
最悪のタイミングって言っちゃってるところも、天然あざとい。
コメント
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声にならない叫びで悶えております、転がり回っております… あぁ焦れったい、でもそこがいい!!
更新されるたび、この作品も夢中で読んでおりました。すでに想いが重なって公私で共にいる赤と白のお二人と違って、こちらのお二人はビジネス上の緊迫感を超えてどのタイミングで想いが芽生えたり交差するのか…とドキドキしていましたら今日、ついに!その片鱗が読めて幸せな夜です🥹
うわ、めっちゃ良かったです……。会議室のあの静かな空気感、タンブラー越しに伝わる熱、そして「離せないんです」っていう仁人さんの正直な言葉。全部がぎゅっと詰まってて、胸が苦しくなりました。後輩の絶妙な乱入タイミングも最高で、あの一瞬の緊張と笑いに昇華されるところがもう……。最後の「ぬるめでお願いします」で完全に持っていかれました。設定も伏線も美しくて、本当に素敵な作品です。