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「……阿部ちゃん、どうしたの」
「何が?」
震えが滲む声で問いかけると、阿部ちゃんは目をぱちりと瞬かせた。
何度その頬を撫でても、冷たく滑らかな手触りは変わらない。およそ生きている人間のものではない無機質さ。いくら確かめても結果は同じなのに、どうしても認めがたくて手を離せない。
「顔が、……それに目も、いつもと違う」
「……蓮は、こんな俺は嫌?」
「いや、……嫌じゃ、ないよ」
「ふふ、ならよかった」
阿部ちゃんはうっとりと目を閉じながら、そんなおれの手に顔を擦り寄せる。懐いた猫が甘えてくるような仕草。それは、身も心もすっかりほどけたときの彼が見せてくれる姿そのもので、胸が小さく疼いた。
阿部ちゃんでは、ない。
少なくとも、おれの知る、あたたかくて優しい彼では。
それだけをどうにか飲み下して、ようやく彼の頬から手を離す。起き上がってベッドを降りると、阿部ちゃんもおれについてきた。シャラ、と鎖が音を立てる。見たところ相当の長さがあるらしいそれは、彼の動きを妨げないようだ。外せないのかと思って触ってみたけど、おれではどうにもできなさそうだし、阿部ちゃんも「気にしなくていいよ」と言うのでしかたなくそのままにした。
ベッド脇の大きな窓の前に立つ。風にそよぐように揺れている真っ白いカーテンを引くと、そこに広がっていたのは驚くべき光景だった。
「うわっ、海!?」
窓の外は一面の海だった。
それも、海岸や海沿いなどではない、真っ青で透き通った海の中。
窓ガラスも無く、バルコニーだけが広がっているその先に、おれがいつか夢の中で見たような景色が広がっている。
海中に咲き誇る美しい花々――アジサイ、アネモネ、キブシにキョウチクトウ。その鮮やかな色彩の中を、こちらなど眼中に無いように悠々と泳ぐ魚たち。
どう見ても海の中だというのに、水が部屋へ流れ込んでくることも無く、バルコニーに出てみれば部屋の中と変わらず呼吸ができる。まるで大きな泡で包まれた中にいるようで、すげえ、と思わず声が出る。
「……いったいどうなってんだ……?」
バルコニーから身を乗り出すようにしてぐるりと見渡しても、一面すべて海の中の光景だ。
外に手を伸ばしてみたが、水に触れるような感覚は無く、手が濡れることも無い。眼の前のものに感覚が追いつかなくて、もしやプロジェクターか何かで投影された映像なのではないか、と錯覚してしまいそうになる。
そんな、あまりにも現実離れした、美しい空間。
「わぁ、綺麗」
おれの隣に並んだ阿部ちゃんが、明るい声を上げた。一分の驚愕も無い、ただ純粋な感嘆の声。ガラス玉の瞳が海中に差す光を映して、きらきらと輝いている。嬉しいことがあったとき、美味しいものを食べたとき、クイズに正解したとき、感情豊かで雄弁な阿部ちゃんの目はいきいきと輝きを放つ。その輝きに、とても似ていた。
何となく彼の手をとって、そうっと握る。やはり陶器らしい手触りであることには変わりないものの、おれの体温が移って馴染むのか、ほんのり温度を持って柔らかく感じる。阿部ちゃんは海中の風景からおれの顔に視線を移して、花が綻ぶように笑った。
このままずっと眼前の美しい光景を眺めていたい気持ちもあったけど、それでは埒が明かない。彼と手を繋いだまま部屋に戻り、改めて中の様子を見る。
おれたちが先ほどまで寝ていたベッドは、大きさこそキングサイズくらいありそうだが、それ以外は何の変哲も無いベッドだった。白くて糊が効いたシーツは、おれたちのせいで少し乱れている。ふと、枕の下から何かが覗いていることに気づいた。気になったので阿部ちゃんの手を離し、枕を持ち上げてそれを引っ張り出してみて、ぎょっとした。
「えっ!?」
現れたのは、よく切れそうな大ぶりのナイフだった。
なんて物騒なものがこんなところにあるのだろう。さっきここで寝ていたときは全然気づかなかった。下手したら阿部ちゃんやおれが怪我をしていた可能性だってある。
柄には真っ赤なリボンが結んであり、目を凝らすとリボンには何やら文字が書かれていた。手書きの、女性らしい丁寧な筆跡の美しい文字だ。
『王子様はあなた。おとぎ話の王子様は、死んでも……?』
「……どういうことだろう」
書いてある内容がいまいちピンとこなくて首をかしげる。と、阿部ちゃんが「何があったの?」とおれの手元を覗いてきた。
「これ、枕の下に置いてあったんだ。阿部ちゃん、心当たりある?」
「……ううん。でも、べつに今これを使う用事は無いし、戻しておこう」
「えっ、ちょっと、戻しておくって枕の下に? 危ないよ」
「大丈夫。蓮だって、こんなものを俺に向けたりしないでしょ?」
阿部ちゃんはそう言って微笑むと、おれの手からナイフを取り、元あった場所すなわち枕の下に戻す。そしてさっきまでしていたように、おれの手をきゅ、と握った。
もちろんおれが阿部ちゃんに凶器を向けるわけなんて無いけれど、それでも寝るとき枕の下にあの大きな刃物が潜んでいると考えると、緊張で寝つきが悪くなりそうだった。
部屋にはベッドの他にもいろいろな設備が備えつけられている。キッチン、バスルーム、本棚、タンス、そして扉。扉にはドアノブがついておらず、外に出ることはできなさそうだ。扉の脇には部屋全体を見渡せる位置に姿見が置いてある。覗いてみたけど普通の鏡で、特に変わったことが起きるわけでもなかった。姿見に映る阿部ちゃんは、おれと一緒に収まろうとしてなのかぴったり体をくっつけてきて可愛かった。
阿部ちゃんの手を引きながら、バスルームへ向かう。脱衣所も、浴室やその中にあるバスタブも、おれたち二人が同時に入っても十分なほどに広い。
「阿部ちゃんの脚の鎖、めちゃくちゃ長いね。こっちまで来れるんだ」
「そうだね、このまま風呂も入れそう」
「一緒に入る?」
「うん」
おれの下心丸出しな言葉に、阿部ちゃんは照れも逡巡もなく頷いた。
シャンプーやボディソープはさまざまな種類が置かれていて、中にはおれや阿部ちゃんが普段使っているものもあった。脱衣所にはふかふかのタオルがこれでもかと積まれ、おまけに入浴剤までずらりと並べられている。まさに選り取り見取り、至れり尽くせり。
すげえな、と驚嘆の声を漏らしながら、バスルームを出て次にタンスを覗いた。
上から順に引き出しを開けて中を見る。どの引き出しにもたくさんの衣類がしまわれていて、やはり白で統一されている。ここまで白一色だと綺麗だの几帳面だのを超えて、いっそ神経質なまでの潔癖さを感じた。
そして三段目、おれが一番手を掛けやすい位置にある引き出しを開けたときに、それは現れた。
『見ているぞ』
ただそれだけが書かれたメモ。
みぞおちのあたりがヒュッと竦んで冷える。
見ている。おれたちのことを? 誰が? どこから? どうやって?
裏返してみると、そこにも同じように文字が書かれていた。
『見られたくないことがあるの?』
「……どういう意味?」
独り言ちたおれの手元を、さっきと同じように阿部ちゃんが覗き込んでくる。「これ、どういうことかわかる?」と尋ねると、やはり「ううん」と首を振った。
それ以上考えようというそぶりを見せない彼に、違和感が募っていく。いつもの阿部ちゃんなら、こういうものを見れば意気揚々と謎解きに取りかかるだろうに。この阿部ちゃんは、一切の興味が無いらしい。
――やはり、彼は阿部ちゃんではない。
そう思うのに、思いたいのに。
おれを見つめて微笑む彼に、どうしても愛おしさが湧いてくるのを、否定できなかった。
コメント
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不思議がいっぱいです。 全部が綺麗で 不気味もいっぱい 続き気になります。
読み終わったよ~!第4話、不気味で甘くてたまらなかった…。「阿部ちゃんじゃない」って確信してるのに、愛おしさが勝っちゃう蓮くんの心情が切なくて。海中の部屋の描写が綺麗すぎて、逆に怖さが増すよね。枕の下のナイフと「見ているぞ」メモ、誰が仕掛けたんだろう…。続きが気になりすぎる🔥
三文小説
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