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この部屋には時計が無い。
おれの私物、たとえばスマートフォンや腕時計といった類のものも一切見当たらない。
なので、いま何時なのか、おれたちが目を覚ましてからどれくらいの時間が経っているのか、知るすべが無い。
ここでの時間はいつもよりもゆっくりと過ぎているようにも、うんと早く経過していっているようにも感じる。窓の外に広がる海中の景色はまったく変わらず、目を楽しませてはくれるけど時間の経過によって何かが起こるというわけではなさそうだ。
阿部ちゃんと過ごす時間はいつも、あっという間に過ぎてしまう。スケジュールの合間を縫って何とか逢えるときは、わずかな時間をほんの少しでも無駄にしないよう努力と工夫を重ねたし、半日や一日といったまとまった時間を取れるときは惜しみなく彼との逢瀬に注いだ。会うなり抱きしめ合って唇を触れ合わせれば、それだけでたちまち何分と費やしてしまう。一晩を共にできようものなら、瞬きのような速さで夜が明け朝が来てしまうのだ。これじゃ時間がいくらあっても足りないよ、と事後のベッドで阿部ちゃんを腕枕がてら抱きしめて零したおれに、阿部ちゃんは小さく笑い、おれの頭をあやすように撫でながら言った。アインシュタインの特殊相対性理論って知ってる? うーん、聞いたことはあるかも、と返すと、彼は滔々と教えてくれた。時間や空間は絶対的なものじゃなくて、見る人によって変わるんだよ。たとえば、俺が時計を見て五分間をきっちり正確に測っても、同じときに蓮が別のことをしていたらその五分を三分に感じるとか。わかりやすい例だと、何もせずにじっとただ待っているだけの時間は長く感じるけど、好きな人と一緒にいる時間はあっという間に過ぎちゃう、っていう感覚、わかる?
うん、まさにそれだ。おれが頷くと、腕の中でこちらを向いていた阿部ちゃんが、いっそう体を寄せてきた。剥き出しの脚を絡め、おれの首元に顔をうずめるようにして甘えてくる彼の、とろとろとした声が鼓膜を撫でる。優しい体温越しに、とくん、と穏やかな鼓動が伝わってくる。
俺も、いつも思ってるよ。どうして蓮と逢うときはこんなに時間が早く過ぎちゃうんだろう、このまま夜が明けなければいいのに、いっそ時間が止まればいいのに、って。
おれに魔法が使えたなら、きっとあの瞬間、おれと阿部ちゃんの時間を止めてあの夜に閉じ込めてしまっていただろう。
タンスの中を一通りチェックし終えて、次に本棚へと移った。
それなりに大きい本棚だが、中にはほんの数冊だけが収められている。どれも絵本のようだ。
そのうちの一冊は、ひどく古びた本だった。タイトルは『人魚のひいさま』。何となく知っている話のような気がして、表紙をめくってみた。
人魚姫は、海の底深くにある「海の民の国」の王女です。
人間はいつか死ななければなりませんが、肉体が滅びたあと、生き続ける魂をも持っています。そして魂は空にのぼって、輝く星になります。
しかし人魚は、300年生きて命が尽きると、ただの海の泡になってしまいます。
それでも人魚姫は、一目惚れした王子のため、魔女に頼んで人間になります。
魔女は、いったん人間になったら二度と人魚には戻れない、そして王子がほかの女と結婚したらその次の朝、人魚姫の心臓は粉々になり海の泡になる、と告げます。
人魚姫は、足をもらう代わりに声を失い、舌を切られます。
そして、尻尾が取れて手に入れた足は、一歩ごとに鋭いナイフの上を歩いているような痛みが走るだろう、と魔女が言います。
人魚姫は痛みに耐えながら、王子のもとへと行きました。
しかし王子は別の女性と結婚することになり、人魚姫は自分が救ったのだと言いたくても話すことができず絶望します。王子はその女性との結婚を決意します。
結婚式のあと、自分の心臓が破裂して死ぬことを覚悟した姫の前に、姉の人魚姫たちが現れます。
朝日の最初の光が射してくる前に王子の胸にナイフを突き刺せば、人魚姫はまた元の人魚に戻れる。だから王子を殺せ、と姉たちは言います。
夜中、人魚姫は眠っている王子のところに行き、王子の額にキスして最後のお別れをしたところ、王子は寝言で奥さんの名前を呼びました。
時が迫りいよいよ朝日が迫ってくる中、人魚姫は王子の胸にナイフを刺そうとしますが、どうしてもできず彼女はナイフを海の中に放り投げます。
そして海に身を投げ、その体は海の泡となって溶けていきました。
よく見聞きしたことのある、人魚姫の物語だ。
子ども向けの童話には、元々はもっと残酷だったり悲惨だったりするものを、受け入れやすいようマイルドに変えたものも多いらしい。そう阿部ちゃんが教えてくれた。人魚姫の物語はどうなのだろう。報われない自己犠牲、振り向いてもらえない片思い。声を奪われてしまっては、名前を呼ぶことすら叶わない。
「蓮はそのお話、好き?」
横からおれの開いた本を覗いていた阿部ちゃんが尋ねてくる。
「そうだな。綺麗な話だとは思うけど、おれはあんまり好きじゃないかな」
「どうして?」
「人魚姫がかわいそうだから」
そっか、と呟いて、それきり彼は何も言わなかった。
他の本も全部見てみたものの、どれもごくありふれた子ども向けの絵本で、阿部ちゃんに一つ一つ「この本知ってる?」と聞いても首を横に振るばかりだった。
絵本以外に見るべきものは何も無く、最後に手に取った一冊を本棚に戻しておしまいにする。
残るはキッチンスペースだ。
作りとしては大きめのダイニングキッチンになっている。ぴかぴかの調理台とコンロにシンク、そして広いテーブルと椅子が二脚。
「お腹減ったなぁ。ねぇ、ごはん作って」
唐突に阿部ちゃんが言い出し、おれの服の裾を引いてねだってきた。
「……ごはん、食べれるの?」
「蓮が作ってくれるなら、何でも食べるよ」
全身がビスクドールになっている彼が食事を摂れるのか不思議に思って尋ねたけど、阿部ちゃんはにこにこしながら少し噛み合わない、しかしおれを喜ばせる返答をよこしてくる。何が食べたいか聞くと「蓮が作ってくれるなら何でもいい」と同じような答えが返ってきた。
何でもいい、という回答は相手に丸投げしているようで好きではない。けれど阿部ちゃんの言う「何でもいい」は嬉しい。それは気遣いの鬼である彼がおれに全幅の信頼を寄せて、甘えてくれていることの証だと思えるからだ。
とりあえず何があるのか確かめるべく、キッチンと備えつけの冷蔵庫の中を確認する。どうやら料理に必要なものはすべて揃っているようだ。調理器具も、食材も、探せば何でも見つけられるのではと思うほどあらゆるものが揃えられている。
お腹をすかせている阿部ちゃんを待たせたくないので、手早くオムレツを作り、トースターでパンを焼いた。それだけでは寂しいかと、サラダとヨーグルトも添える。
「簡単でごめんね」
「わぁ、美味しそう」
屈託ない反応はおれが彼に手料理を振る舞うたびに見せてくれるそれで、やはり心をくすぐられた。
二人でテーブルにつき、いただきます、と手を合わせる。阿部ちゃんの小さな口が、上品な仕草で運ばれてくる食べ物を丁寧に咀嚼し、飲み込むのを眺めながら、その美しくもどこか拙く見える動作に生々しさが欠けているのを感じていた。
食べ終わって食器を片付けてから、再度部屋の中をぐるっと見て回った。しかし案の定と言うべきか、何も変化は無く、今のおれたちの置かれている状況やこれからどうすればいいのかという疑問に対するヒントは得られない。
立ち止まって考え込んでいると、ふいに阿部ちゃんが手を伸ばしてきて、するりとおれの腕を引いた。
「阿部ちゃん?」
驚いて呼びかけるおれに、阿部ちゃんはふわりと笑んだ。
ヒントになるかどうかわからないけど、気づいたこと。
おれが名前を呼ぶたび、彼はひどく嬉しそうな顔をする。
そのままおれをベッドまで連れてくると、阿部ちゃんはシーツの上へ乗り上がり、おれもつられて腰を下ろした。
「お腹いっぱいで、眠くなってきちゃった」
「はは、お昼寝したいの?」
「うん、一緒に寝よう?」
子どもみたいに甘えてくる阿部ちゃんの、幸せそうな、喜色満面の笑みと言葉。
それを聞いているうちに、こちらまですっかり満たされた心地になってきて、しだいに瞼が重くなる。
――変だな、今の今まで眠気なんてこれっぽっちも感じていなかったのに。
そんな思考もたちまち溶けて、おれの体は誘われるようにベッドへ倒れ込んだ。
布団からは柔らかな石鹸の香りがする。
優しく頭を撫でてくる阿部ちゃんの手の、ひやりとした感触。
それすらも、おれの意識を覚ますどころかどんどん眠りに引きずり込んでいって。
そうしておれは、しあわせな眠りに落ちる。
コメント
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うー本当に不思議な世界 でもこの先どうなるのと思ってしまいますね。 続き楽しみに待って居ます。