ふたつの目!
ここは山奥の廃工場。
窓の隙間には、ふたつの目が光っていた。
窓には木の板が打ち込まれ、わずか3センチほどの隙間が空いている。
その小さな隙間には、ふたつの目が上下に並んでいる。
黒く光る眼球は、まっすぐに堀口ミノルを見つめていた。
昨夜の、山中での記憶がよみがえった。
暗い木々の隙間で光る、野生動物の目と何度も出会った。
しかしそれらとは何かが違った。
野生動物の攻撃的な目ではなく、まるで何かを哀願でもするような目に思えた。
人……!
堀口は身の危険を感じ、すぐにレンガの裏に隠れた。
ここは単なる民家ではない。
道行く人が笑顔で挨拶を交わすような、平和な場所ではないのだ。
森の中に作られた秘密の砦。
極めて閉鎖的で排他的であるに違いなかった。
なのに、あの目は何だ?
何かを求めているようなそんな視線……。
いや、単に見間違えただけかもしれない。
室内だからといって、人間であるという確証はどこにもない。
檻に閉じ込められた動物は、いつもあのような目をしているではないか。
ペットショップや動物園で散々見てきたように。
できることなら、このまま山を下りて救援を要請したかった。
しかしここは孤立した島。
山をおりるには相当な距離があり、すでに体力は残っていない。
もしもふたつの目が、この廃工場の主であるなら……。
友好的な関係を維持できるのだろうか。
自分が世界の敵になったことを、少なくともここの人間は知らないはず。
もう一度確認する必要があった。
人か動物か、友好か敵対か。
堀口はひとまず建物全体を把握するため、ふたつの目を避け正面口の方へと向かった。
今にも崩れそうなレンガ壁をつたい反対側に出ると、そこには工場の入口があった。
廃墟となって久しいのは明らかだった。
閉ざされたシャッターが、ひどく錆びついていたからだ。
建物の前に、多くの木が積み上げられていた。
木は湿気によって苔が生えている。
工場の隣に並ぶ古い倉庫は、固く扉が閉ざされていた。
とても人が住んでいるとは思えない場所だった。
堀口は注意深く、シャッターの横にある扉へと近づいた。
錆びついたドアノブに手をかけ、ゆっくりと回してみる。
キイイィッ――。
意外にもノブは簡単に回った。
しかし扉が錆びているため、大きな摩擦音が響いた。
堀口は急いでノブから手を離し、うしろに退いた。
そのまま倉庫の方へと隠れ、しばらく待ってみる。
3分ほど経って何もないことがわかると、再び辺りを警戒しながら中へと入っていく。
工場の内部には、ほとんど窓がなく、暗かった。
過去に木材加工機械があっただろう作業室は空っぽで、倒れた書類棚やパーティション、用途のわからない事務器具が、ゴミとなって捨てられている。
山中を半日さまよったおかげで、感覚は研ぎ澄まされていた。
ゴミの匂いの中に異臭を嗅ぎ取る。
獣臭だけではない、ニンニクやネギといった刺激臭だった。
誰かがここで暮らしている――。
木片をひとつ拾ってみた。
長く光を浴びていないせいで、ひどく湿っていた。
5年、それとも10年か。
作業室の隅に、ステンレスの流し台があった。
それを見たことで喉の渇きが押し寄せた。
すぐに近づいて蛇口を回してみたが、もちろん水が出るはずもない。
水を得るには、もっと奥に行かなければならなかった。
少しのあいだでいい。
ここの主の協力のもとに、肉体を回復させる時間が欲しかった。
作業室を抜けると、動物臭がさらに濃くなった。
肉と血と内臓。
死の匂いが充満している。
血の匂いの元をたどっていくと、キッチンを見つけた。
元々事務所だった空間だろうか。
そこを改造して作ったようなキッチンだった。
中央のテーブルには、血のついたまな板とナイフ。
ガスは設置されていないようだ。
キャンプ用の火鉢と、下には火を起こすための薪が積まれている。
小さな冷蔵庫が、故障したロボットのように置かれている。
堀口はテーブルの下にバケツがあるのを見つけ、その水を飲もうとした。
しかし獣の生臭さがひどく、とても飲める水ではなかった。
おそらく生きた野生動物を、このキッチンにて解体するのだろう。
ちぎれた手足や、割かれた腹。
こぼれ出る胃や腸。
現場から漂ってくる圧倒的なリアリティに胃液が逆流し、吐き気がした。
すぐに手で口をふさぎ、声を殺しながらかろうじて呼吸を続けた。
冷蔵庫の中や鍋なども確認してみた。
しかし飲めるものなどない。
結局諦めてキッチンを離れた。
まずはふたつの目を探さなければならない。
彼らに自分の境遇を打ち明けて、飲み物をめぐんでもらわなければならない。
そう……。
私はたまたま森に迷い込んで、助けを求めているだけだ。
恐れるものなどない。
キッチンを出て廊下を歩いて回ると、ふたつの目があった部屋はすぐに見つけることができた。
扉に新しい錠がかかっていたからだ。
錠前という存在によって、部屋の状況が簡単に理解できた。
木版が打ちつけられた窓の隙間。
哀願するようなふたつの目。
錠前。
誰かがここに閉じ込められているのだ。
瞬間、全身に鳥肌が立ち、とっさに柱に身を隠した。
建物内のどこかに、ここを管理する者がいる。
誰も訪ねることのない、密林の砦を支配する誰かが。
人を部屋に閉じ込める者。
そんな人物が、自分に協力的なはずはない……。
すぐにでもここを離れなければならなかった。
おそらくその者は、自分を見つけ次第襲いかかってくるだろう。
太刀打ちなど無理だった。
肋骨が折れ、脚は言うことを聞かない。
多く血を流しため、意識が朦朧としている。
さらにはここから山をおり、町に出るルートもわからない。
それでも……、ここにいるのは危険だった。
堀口はこの場から立ち去ろうと踵を返した。
鍵のかかった部屋から遠ざかり、忍び足で入口へと戻っていく。
暗い工場の作業室を通り、どうにか入口が見える場所までやってきた。
暗い工場内部を眺めながら、堀口は大きなため息をついた。
「違うだろ……」
堀口はつぶやいた。
同時に反転して、先ほどの部屋へと向かっていく。
「違う。私は犯罪者なんかじゃない」
いつしか敗者としての立ち回りが身についていることがおぞましかった。
「このまま出て行けば、本能のままに生きる獣と同じではないか……!」
断崖絶壁から落ちてもなお、自分が死ななかった理由。
妻と娘が引き止めたのは、この瞬間のためではないだろうか。
苦しむ人を助けてやってください。
風が運んだ妻の声が、確固たる目的へと変わった。
ガシャリ……。
堀口は鍵のかかる扉に手をかけた。
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