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「だと、いいんですけど……」
「悩んでるなら前向きな方に考えた方が良いわ。だって、その方が気が楽だもの」
あっけらかんと言われて、一瞬だけポカンとしたがすぐに二人で笑いだしてしまう。久我さんの言う通りだわ、そう考えた方がずっと自分が楽でいられる。
目から鱗が落ちたような気持ちで、スッキリして久我さんと話していると……
「おや? こんなところで奇遇ですね」
私たちが座る席の横を通り過ぎようとしていた紳士が、私を見て立ち止まる。その落ち着いたハスキーな声には聞き覚えがあった、確か奥野君と待ち合わせをする喫茶店の。
「マスター、どうしてここに?」
「いや、知人と待ち合わせの予定だったのですが遅れてくると連絡が入りまして。貴女はお元気でしたか?」
あえて避けていた店、そして奥野君と親しいマスター。何となく気まずくて、小さく頷いて目を逸らしてしまう。奥野君は今も週末はあの喫茶店で私を待っていたりするのだろうか? それを知るのも怖くて……
「雅貴が、貴女が来なくなって落ち込んでるようです。お節介だとは分かってるのですが、貴女が彼ともう会う気が無ければそう伝えておきましょうか?」
「……そう、ですね。私はもう会うつもりはないのでお願いします」
あんな幸せそうな顔を見せられて、いまさらどんな顔をして彼と慰め合うというの? 私はそこまで都合の良い存在にはなりたくない。これ以上惨めな女に、なるつもりはなかった。
「わかりました、雅貴もこれで貴女のことは諦めがつくでしょう。それでは失礼します」
「……はい、よろしくお願いします」
私を責めることもなく、マスターは笑顔でそう言うと奥の席へと向かって歩いて行ってしまった。いや、私が責められる理由なんてない筈だ。だけど、奥野君がこれで諦めがつくとはいったいどういう事なのか。
「さっきの男性、麻実ちゃんの知り合いなの? 渋くてカッコいいわね」
「もう、久我さんってばそんなこと言って。ただの知人です、これから関わることはもう無いと思いますけど」
大丈夫、奥野君に対して恋愛感情があったわけじゃない。ただお互いに心を慰め合うのに都合が良かっただけで、この選択を後悔なんてしないはずだ。
そう自分に言い聞かせていつも通りに振舞った。勘のいい久我さんは、それでもまだ心配そうにはしていたけれど。
前に進むには何かを吹っ切ることも必要で、それが今回は後輩の奥野君という存在だっただけ。再会しなければきっと思い出すこともなかったはずの彼に、少しだけ癒してもらった。
でも、良くも悪くも私たちはただそれだけの関係でしかなくて……
その日は結局少し暗くなるまで久我さんとおしゃべりをして、気持ちをリフレッシュして帰路についたのだった。
自宅のすぐ近くにある曲がり角を曲がろうとすると、家の前からなにやら話声が聞こえてくる。立ち止まりスマホを確認すれば、いつも岳紘さんが電話に外に出る時間だった。
このまままっすぐ帰れば、いやでも彼の話を耳にすることになる。それはあまり気が進まなくて、その場で少し時間でも潰そうかと思ったのだけど……
「……ん? ああ……まさか! そんな事はずはない。彼女は純粋で誰より綺麗な女性だ、あんな女と一緒にしないでくれ」
「あんな女」とは、誰の事を言っているのだろう? 普段の彼は他人に対しそんな侮蔑を含んだような呼び方はしない。私と岳紘さんは幼馴染で、彼の事は誰よりも知っているつもりだ。それなのに、そんな呼び方をされる女性に私は心当たりがない。
それはつまり、あんな女というのは……もしかして妻である私の事なの?
「……ああ、分かってる。彼女の事はあの女にバレないように上手くやるつもりだ、お前も協力してくれるから本当に助かるよ」
彼女、というのが岳紘さんの愛する女性だということは簡単に想像がつく。あの女にバレないようにとは、私に隠れてその女性と上手く付き合っていくことなのだろうか?
最近、特に優しかったのはそういう訳なのかもしれない。私はまんまと夫の優しさに絆され騙されそうになっていたという事なのだろう。
……どうしようもなく怒りが湧いて、悔しさで唇が切れるほど強く噛んだ。岳紘さんも奥野君も、どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのだろうか?
ただ純粋に好きでいたかった、この想いだけは綺麗なままで決して汚したりはしたくなかったのに。体中が熱くなって、目の奥が痛くなってくる。溢れてくる涙を止めるすべなどなくて、アスファルトに大粒の雫が染みを作っていく。
岳紘さんは自分の妻が、すぐそばに隠れてこんな風に泣いてるなど思いもしないのだろう。握った拳は爪が食い込んでとても痛かったが、それでも自分を冷静に保つにはギリギリの状態だった。
「彼女に会ってみたい? ……ああ、そのうちな。それじゃあ、また」
そう話を終わらせると、岳紘さんはいつもと変わらない表情で家の中へと戻っていく。私に見せる、良い夫の仮面をつけて。
さっきまで岳紘さんともう一度始める未来を考えていたはずなのに、そんなものは全て吹き飛んでしまった。目の前で聞かされた裏切りと、彼の本音にショックで頭がクラクラする。
先ほどの電話の相手にも、いつか彼女を合わせると話していた。妻である私ではなく……彼が本当に愛する女性を。それも許しがたかった。
「これから私はどうなるの? 今の話が本当なら、きっとそのうち」
夫の方から離婚を申し出るに違いない。もしかしたらあのルールも自分を有利に私を不利にさせるためのものかもしれない。そんな簡単に岳紘さんの思い通りにはさせたくなくて。
『……俺が協力しましょうか?』
「確かあの時、野君は……協力してくれるって」
もう会わないと決めたはずの、彼の言葉が頭の中で何度も繰り返されていた。