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「麻実ちゃん、今日は顔色が良くないけどもしかして体調悪いの?」
「そんなことないですよ、今朝は天気が悪いからですかね」
朝礼を終えてすぐ私を呼び止めた久我さんは、そのまま普段使われていない予備の診察室へと引っ張っていく。強引なところがあるのは知っていたけれど、今日はいったいどうしたというのだろう?
そう思っていると……
「そんな表情と顔色で、何ともないなんて有り得ないでしょう。そりゃあ全部話しなさいなんて迫るつもりはないけれど、無理するなくらいは言わせなさいよ」
「久我さん……」
どうやら無理をしていることも彼女にはバレバレだったらしい、少し怒ったようで拗ねた表情の久我さんを見て心が軽くなっていくのを感じた。話さなくてもいい、だけど心配させろなんて本当に久我さんらしくて……
同じことを私なら言えるだろうか? 理由も分からない相手の苦しみだけを分かち合おうとするなんて、そう簡単なことではないのに。
「同僚の立場ってもどかしいの。親友ならば口を出すことが出来ることでも、この距離感だとそうはいかない。でも放っておくのも嫌で、こんな中途半端なことしか言えないから」
久我さんがそんな風に考えていたなんて。いつも上手な距離の取り方で、周りを不快にさせない彼女だからこその悩み。でも、それは決して嫌なものではなくて。
「ありがとうございます、久我さん。その気持ちだけで、十分嬉しいです」
「でも、麻実ちゃん……」
それは素直な気持ちだった、職場の先輩だからとかではなく純粋に心配してくれている。それが痛いほどに伝わってきて、今にも挫けそうだった心を励ましてくれたのだから。
だからといってすぐに何かの解決策が浮かぶわけじゃないけれど、それでも久我さんは私にもう少し頑張るための元気をくれる。
「私はとても良い先輩に恵まれてたんだって、今頃になって気付きました」
「今になってそういうこと言うのね、もう!」
これが空元気だという事はきっと久我さんにもバレてるだろうけれど、それでも私は少しだけ笑えてる。きっと彼女が声をかけてくれてなければ、こんな作り笑いも出来ないままだったはず。
まだ大丈夫、私は。だから……
「ふふふ、そうなんです。もっと周りをよく見てみることにします、これからは」
「そうしなさい、さあ仕事に戻るわよ。今日も忙しいんだからね、麻実ちゃんには元気に働いてもらわなきゃ困るの」
そう言って先に受付に戻っていく久我さんの後ろ姿を見ながら、今は自分に出来る事とこれから先必要になることを頑張るしかないと考えていた。
どんな未来が待っていても、その時には一人で立っていられるようにと。
仕事をしている間は無心になれる、それが忙しければ忙しいほど余計な事を考えずに済むから良かった。今日は比較的に患者さんが多い日で、慣れない新人のサポートに回ることも何度かあったから。
そんな一日の仕事を終えて、いそいそと帰り支度をする同僚たちを横目に小さく呟いた。
「まだ帰りたくないな……」
「じゃあ、私と飲みに行きましょうか! この前は麻実ちゃん途中で帰っちゃったしね」
いつの間にか隣に立っていた久我さんが、嬉しそうに声をかけてきてくれた。きっと今朝の事をまだ気にしてくれてたに違いない。
必要以上の深入りをせず、一定の距離を崩さないでくれている彼女とならそれも良いかもしれない。そう思った私は、久我さんの誘いに乗ることにした。
「久我さん、本当にいいんですか? 誰か家で待ってたりとか……」
「そうね、でも妻だろうと母親だろうとたまには息抜きくらいしてもいいと思わない? 私たちはれっきとした一人の人間なんだから」
笑顔でそう話す久我さんに、私も同じなんだと気付かされる。岳紘さんの妻である前に、私は麻実 雫というたった一人の……
「自分の気持ちを優先したい時があってもいいんじゃないのかしら? 誰かのためばかりじゃ、ちょっとだけ息詰まっちゃうもの」
「確かに、そうですね……」
久我さんの言う通りだ、私はいつも岳紘さんの事だけを優先に考えて生きてきた。だからこそこんなに今は苦しくなっているのかもしれない。
もっと以前から周りに目を向けていれば何か違っていたかもしれないのに。
「……今からでも、遅くないですかね?」
「それはそうよ、もしかしたら気付いた時がベストなタイミングなのかもしれないし? 麻実ちゃんはまだまだ若いんだから」
彼女がそう言うと、それが間違ってない気がしてくるから不思議。こうして前向きな考えを聞いていると、自分も前を向いて進めるのではないかと思えるから気持ちが良い。
近くのチェーン店の居酒屋でカクテルと生ビールで乾杯して、普段は注文しない豚足やあん肝にも久我さんと一緒に挑戦してみたりした。
「悪くないですね、新しい事にチャレンジするのって。いままでずっと自分にとって安全なものばかり選んでいましたから」
「そうね、それも悪くは無いと思うけれど……麻実ちゃんなら、まだやったことのない事にもどんどん手を出してもいいんじゃないかしら」
久我さんの言う通りだと思う、これは私の人生で責任を取るのも自分自身。これまで岳紘さんだけを中心に考えてきた私だったけど、それじゃあ駄目なんだ。
ハッキリと自分の気持ちも考えも伝えて、夫との関係を変えていく必要があるんだってやっと分かったような気がした。
「なんだか頑張れそうです、久我さんのおかげで」
「私は何もしてないわ、ただお節介なだけよ」
この日は久我さんと笑顔で別れることが出来た。いつもより少し遅い時間になったが、朝とは別人のようにすっきりとした顔で私は帰路についたのだった。