岳紘さんの帰りはいつもわりと遅くて、これくらい帰るのが遅れても彼に知られることは無いと思っていた。だからもちろん、普段の時間に帰らない私を夫が心配するとは考えてもいなくて……
「どうして、こんな時間に帰ってるの? もしかして体調が悪かったとか、それならスマホに連絡してくれれば良かったのに」
「いや、今日は直帰で良いと上司に言われたんだ。せっかくだから雫と出かけようかと思っていたんだが、君が帰ってこなくて」
それならば余計に何故連絡をくれなかったの? まるで普段通りに帰ってくるのが当然のように言われた気がして、少しだけ苛立った。
自分は仕事の付き合いだ何だと、メッセージ一つで遅く帰ってくるのも珍しくないくせに。今ならそれも本当に仕事だったのかと、疑う気持ちまで生まれて。
「それはごめんなさい。でも私には子供もいないし、少しくらい職場の人との付き合いも必要かと思って。もし、何かあった時の為にね」
「……それは、どういう意味なんだ?」
私が含んだ言い方をしたのに気付いたのだろう、岳紘さんの表情がいつも以上に固いものになった。普段だったらこういう時に私は、必死で彼をこれ以上不機嫌にしないようにと気を使っていたのだけどそんな気にもなれなくて。
「そうね、人生って何が起こるか分からないもの。それこそ誓いを立てた夫婦だって必ず添い遂げるとは限らない、そういうものでしょう?」
「雫、君は何を言って……?」
珍しく戸惑ったような表情を浮かべた岳紘さんを見て、自分が余計な事まで口にしてしまったのだと気付く。言葉に詰まっている彼から逃げるように、私はそのまま岳紘さんの横をすり抜けて自室へと急いだ。
……この時にきちんと向き合っていれば、近い未来あんなにも私たちの関係が拗れることはなかったのかもしれなかったのに。
「……今朝も、なのね。もう何日目かしら」
あの日、私と岳紘さんが衝突した夜から彼の顔をほとんど見ることはなくなった。二人とも今まで通り同じ家で暮らしているにもかかわらず、だ。
テーブルに置かれた朝食の内容は昨日とそう変わらない。だけど朝早起きして夫が作ってくれているのは間違いなくて。どうして数日たった今もそうするのか、私には理解が出来なかった。
これが罪悪感からだというのなら、私を避けながらも食事を準備する必要はもうない気がする。それだけでなく岳紘さんは、私が用意した夕食を深夜に帰宅しきちんと完食してくれている。一度は食べずに捨てているのかとも疑ったが、きちんと食べた形跡も残っていて。
「分からない。岳紘さんが何を考えてるのか、これから先どうしたいのかも」
二人の間に冷却期間が必要だと夫は考えたのかもしれないが、その時間が私の心を余計に頑なにさせていることに彼はきっと気付いていない。
自分から謝るつもりはなかった、先に裏切ったのは岳紘さんの方だもの。そんな思いが何度も浮かんでは私の胸の奥に新たな傷をつける、何度も繰り返し繰り返し。
……一度拗れた関係はお互いがそこから目を背けた瞬間、どんどん悪化し手の施しようがなくなる。それがどんな些細なことが原因で始まったことで、本当はそのどちらにも非など無かったとしても。
これがただの恋人同士という関係だったならば、自然消滅という形の終わり方もなくはない。だけど私たちは結婚している、こうして同じ家に住んでいて二人の関係が勝手に終わるという事は無いのだ。
両親の反対を想像すれば私が実家に帰るという手段も使えない。お互いに相手を避けて生活しながら、そうして時間だけが無意味に過ぎていく。
「こういう時は私の方から行動に移すべきなの? でも、それは……」
この前の発言を岳紘さんはどう受け取っただろう? もし私が別れることを望んでいると思われていたら、彼にそんなつもりはなかったと話しても言い訳に聞こえるかもしれない。
私自身、本音を言えばこれからどうすればいいのかまだ分からなくて。
『……俺が協力しましょうか?』
ふと頭に浮かんだあの時の奥野君の言葉。本気にしていたわけではないけれど、もしも今の状況を変えることが出来るとするならば。
「いいえ、奥野君を巻き込むのは間違いだわ。彼には彼の家庭があるんだもの」
奥野君は自分の事をあまり話してくれないが、奥さんの事を何とも思っていないわけじゃないと分かっている。私と同じようにもどかしい感情を抱えたままの夫婦生活を送っているのだと、そんなふうに想像して勝手に思いこんでいた。
「私の方が奥野君の話を聞く余裕もなかったのよね、これでも先輩なのに格好悪い……」
あの日は彼から逃げるように帰ってきてしまったが、今度はきちんと謝ってお礼を言うべきなのかもしれない。あんな時間にわざわざ来てくれたのだ、私の事を心配して。
それにどれだけ心が救われたか、ちゃんと伝えることも出来ていなかった。自分の余裕のなさが今更ながらに恥ずかしくなる。
「もう一度、会いに行こうかしら」
どうせ今度の土曜も岳紘さんはきっと私を避けるために休日出勤でもしているだろう。そう考えれば、わざわざ家で大人しくしているのも馬鹿らしく感じて。
もし奥野君が私に会いたくなければ喫茶店に入らなければ済む話だろうし、一人だったとしても気分転換だと思えば気が楽だ。
お互いの連絡先を知らないから気軽に会えないが、私たちにはその方が良かったと思う。頼りきりになることも、泣いてばかりの弱い自分を見せなくて済む。
「……今度は奥野君の弱みを吐かせるのも良いかもしれないわね」
なんて、きっと彼は強がって話してはくれないだろうけれど。それでも気晴らしになれればいいか、なんてこの時は少し楽観的に考えていて。
その日を境に私と岳紘さん、そして奥野君の関係が大きく変化してしまうなんてこれっぽっちも想像していなかった。
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