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「それでその美容師さん、離婚を勧めるんです……夜寝る前にどんな酷いことをされたか日記につけようって。でもそれ、……逆効果にしか思えなくって。わたしのなかで夫への憎しみがどんどん膨らんでいくようで……抵抗があって」
涙目で打ち明ける彼女の話に広坂冨美恵は聞き入る。こういうとき、横やりを入れないのが冨美恵のスタンスだ。
「美容師さんとのおつきあいは十年以上にものぼるんで、そのかた、わたしのことをある程度分かっているんです。だから、わたしのことをよく知っているひとがそんなふうに言うんだからやっぱり……将来的に別れたほうがいいのかなって。でも、子どもも父親に懐いているし、わたし自身いまの生活が気に入っているんで……変えたく、ないんです……」
「分譲マンションだったわよね」と冨美恵。「確かに、快適よね。うちなんか戸建てだから尚更そう思うわ。戸建てってどうしても自分でメンテナンスをしなければならないからあとが大変なのよ。風呂が壊れた外壁を直す……都度わたしが連絡とって、業者さんとやり取りをするのよ。大変。お友達の新築の分譲マンションに行って見せてもらったことがあるの。羨ましかったわ。食洗機もディスポーザーも初期装備。ごみは好きな時間に出せるし快適そのものだと言っていたわ。……生活は、大切よ、確かに」
「……ですよね」と彼女。「それで、……その美容師さんは、わたしが長男の嫁だから、介護一切を押し付けられるだろうことも心配していて……」
「あなた、仕事は、辞めるつもりはないのよね」
「勿論です」と彼女。「死ぬまで働くって決めています。……それで。義理両親宅の近距離に住む義理の妹は、全然面倒見る気配がなくって……それもあって、不安になってます」
「一口に介護といっても、いまは、いろいろなやり方があるのよ」と冨美恵。「介護のレベルによって入れる施設も違う。空きが出るのを待ってからより自分の条件に合う施設に入った、というひともいるわ。それは、そのご両親次第よね。どのくらいの資産があるのか、どこで暮らしていきたいのか……片方が先に亡くなったときにどうするのか。一概には言えないわ。ある程度経済的に余裕があるのであれば、施設に入るのも選択肢としてあるから……必ずしも、あなたを頼りにするとは限らないわ。少なくともわたしの周りでは宅で過ごすよりも施設を選ぶ人間のほうが多いわ。そのほうがお互い、楽でしょう?
あなたはいま、ご主人への不満。将来的な介護への不安。……それらをごっちゃにしているから、より悩みが深くなっているのね。
どうかしら? 将来的に、いまの生活を捨ててひとりになりたいって思う?」
「いえ。全然……」と彼女。「離婚したら生活レベルが下がるのは瞭然なので。たぶん、病むと、思います……。いまの快適な生活に慣れきっているので。もし夫が先に死んだらそのときはまた考えますけれど、いまの状況では、いまの生活を壊すことなど先ず、考えらんない、です……」
「明かりが見えたわね」と冨美恵。「深い暗い穴倉に迷い込んだあなたのなかのトンネルに」
冨美恵の比喩に彼女は笑った。「そうですね……話すことですっきりしました。美容室は近所で……探します」
「美容室探しも案外楽しいものよ?」と冨美恵。「見知らぬ女性と当たり障りのないトークで盛り上がる。ご主人の愚痴を言う。……男性だったのなら今度は女性でどうかしら? 女性のほうが、やはり、共感能力が高いから、あなたの苦しみを和らげてくれると思うわ……」
「ありがとうございました冨美恵さん」と頭を下げる女性。「ひとりで溜め込んで苦しかったんで……楽になりました。ありがとうございました」
「その美容師のかたも、わたしも、あなたのすべてを知っているわけではないのよ」高らかに言い切る冨美恵。「あくまで、わたしたちが見ているのは、あなたのなかのほんのごく一部なの。それは、接客するうえでも常に意識して欲しいことでもあるわ。わたしたちは、夢を売る仕事をしているのだから……断罪は、最も危険な行為よ。人間の思考を不自由にする……視野狭窄……自分と異なる人間の意見を排除し、己の意見のみが正しいと考える……不自由な人間の型だわ。ひとつの物事に対し、常に二つ以上のものの見方をしなさい。……だからね。
よく働くご主人を大切に思う、という自分と……産後ろくに赤子の面倒を見なかった、そのことが許せないあなたも大切なあなたの一部なのよ。捨てる必要はない。どんな経験でも、しておいて無駄なことなどひとつもないのだから……あなたはこういう仕事をしているのだから、あなたの前に苦しむ人間が現れたら、きっとあなたはそのひとのことを救ってやれるわ……覚えておきなさい。
苦しみは、人間を、強くする。
苦しみを知る人間は強いのよ。何故なら、知らない人間には見えないものが見えるから……届かない領域に手が届くのだから。
迫りくる苦しみを肥やしにして、女なら、より美しくなる道をお選びなさい。女として生まれたことへの幸せを……感じなさい」
彼女は、何度も頭を下げて、帰った。見送る冨美恵の胸中は複雑そのものである。確かな手ごたえと……息子をあんな甘っちょろい人間に育て上げた人間がご高説を? という矛盾と……。
「さぁて。帰りますか」
一階へと降り、従業員に挨拶をし、店を出る。夏の蒸した空気に出迎えられ、冨美恵は、冷房で冷やされていた肘を擦った。年を取れば取るほど、寒暖差がきつくなる。救心の広告の彼が言う通りで。
宅に帰宅すると居間で夫の昇(のぼる)は熱茶を飲んでいた。新聞から目を譲ることなく、「――おい。おかわり」……と来たものだ。互いに、リタイヤしている……がまだ冨美恵は現役だ。一線を退いたものの、悩める従業員のためにしてやれることがあるのではと、奔走する日々を送っている。
それは他の誰でもない、冨美恵が自分で判断して決めたことだ。昇と結婚したことも、二児を産んだことも……。でも時々、どうしようもなく虚しくなることがある。なんのために、自分は生きているのかと。分からない。見えなくなる自身を冨美恵は自分のなかに発見する。何者になるのか分からない、十代の頃のように自分を持て余していた自分を。――そんなとき、必ず、冨美恵は思いだす。いったい自分がなにをしでかしたのかを。それは、冨美恵が一生背負うべき十字架だった。
第一印象がすべてではない。
だが、その人間を決定づける大事な要素ではある。例えば、服装に無頓着な人間は、他人の目に自分がどう映るのかを意識していない。自分は、景観を汚さぬひとつの要素。他人を不快にさせない程度の美意識は大切だ。
息子である譲が最初に選んだ女性は、自意識過剰とも言える女性であった。髪や服装にメイクに金をかけ、それは別によいことなのだが、……けばけばしい。譲は冨美恵の自慢の息子だ。放っておいても女のほうからやってくる程度の見た目と良識を兼ねそろえた美男子だ。なのに、何故、母親よりも化粧の濃い女を選んだのか。意味が分からなかった。
広坂の嫁として嫁ぐからには、広坂家のルールに従う必要がある。そのことも、弁えていないようであった。大事な息子の結婚式。なのに、選択肢があればその女は広坂のことを考えずに、自分のことばかりで。五万円で挙げられる結婚式場を選ぼうとしたのには絶句した。この子たちには指導者が必要だと、冨美恵は思った。
最初から『なにかやらかすなこの嫁は』という予感はあったのだが、婚約破棄を告げられたときには『やっぱりな』と思った。大切な息子を傷つけた女に対し、冨美恵は徹底抗戦をした。結果得られたのは、いくばくばかりのお金と、息子の自尊心の破壊。それだけであった。傷ついた息子たちの様子を見たときにようやく、冨美恵は自分がなにをしでかしたのかを悟った。時すでに遅しであった。
いまだに、冨美恵のなかでは結論が定まらない。あの戦いを肯定する自分もいれば、その後しばらくのあいだ息子である譲に女性不信を抱かせた……あの後長らく譲は、女を作らなかったようである……守のほうも、『まさかそこまでする?』と母親の姿に驚いていたようであり、慰謝料を貰えたということはつまり、譲の元婚約者が広坂家にそれだけのダメージを与えたということであり、また商売を行う者としても、その後のために、なにかあれば広坂は戦う……そういう姿を見せつけることは必要であった。ある程度。
会う都度、その元婚約者は憔悴するどころか、化粧を強めていった。まるで化粧をすることで、自分を守っているようであった。その女性がいまいったいどうしているのか、分からない。浮気相手とも結ばれず、実家に帰ったという噂も聞く。あの強い化粧で武装する姿を見て冨美恵は思うところがあった。あんなにもあのひとを追いつめて、いったいわたしはなにを得たのだろう? と。
誰かを傷つけたとて得られるものはなにもない。それが、一連の騒動で得た、冨美恵の教訓であった。従業員の相談に親身になるのも、その罪悪感の解消でもある。悩める女性は多い。先ほどの従業員のように。最後には自分の思想で締めくくることが多く、頼りにされることをありがたいと思う一方で、自分の思想を押し付けていいものか? 人知れず煩悶する冨美恵である。
先に帰った夫は既に食事を済ませている。一人分の遅い夕食を食べていると、夏妃からメッセが。
「あら……素敵」
本番のドレスを着用したヘアセットリハーサル。お揃いのピンクが似合っている。夏妃はピンクのドレス、譲はグレーのタキシードにピンクのカフスをつけて。
『今日、ヘアセットリハーサルに行ってきました』
『とってもお似合いよ。本当に素敵。当日が楽しみだわ』
『ありがとうございます!』……出来た嫁だと思う。譲はやっと、自分にふさわしい女を選んだと思う。紆余曲折を重ねて。ここまでたどり着くのに随分時間を要した。契約結婚と聞いたときには、向こうの親御さんが納得するのか? 譲はそれでいいのか? 『逃げ』ではないのか? 思い悩んだものだが、二人は恋愛を重ねるうちに恋愛結婚を選んだようだ。放っておいても自分から道を切り開く――そう、あの子たちはもう大人なのだ。あれこれ口出しをするのではなく、親に出来るのはあたたかく見守ること――。
「あれえ。おばあちゃん、なに見てるのぉ?」舌ったらずな口調でやってきたのは守の娘であるさつき。風呂上がりと見られる、首からタオルを下げた彼女に、「夏妃おねえちゃんたちの写真よ」と見せてやる。
「うわー。すっごく綺麗! お似合いだね!」
「そうね……」
「なんでおばあちゃん泣いてんの」苦笑いしつつ、キッチンから牛乳を出すさつき。「譲おじさん、もう四十なんだよ。今更結婚して泣く……て年頃でもないでしょう?」
まだ十六歳のくせに、大人びた発言をするものだ。冨美恵は「まだ三十九よ」と言い、
「それでも……子どもはいつまで経っても子どもなのよ。わたしいまだに、あの子が生まれた朝のことを思いだすの。燃えるような朝焼けが輝いていて、この子の誕生を祝福しているかのようだったわ」
「それなのに、……『譲』って」コップを手に、祖母の隣に座るさつきは、「ねえ。ずっと聞きたかったんだけど、なんでおばあちゃんは譲おじさんに『譲』って名付けたの?」
「それは……」考え込む冨美恵。「『守』と合わせて語呂がよかったのと、大切ななにかを見つけたときにどうしてもこれだけは譲れないという、強固なる自分を、構築して欲しかったの……」
「そしたら『譲らない』が正じゃん」とさつき。「おじさん、ずっと名前のことネタにしてたもんね……なんにせよ、夏妃さんのことは絶対譲れないんじゃん? よかったよね。そーゆーひとに巡り合えて」
一連の騒動を聞かせてはいないが、彼女なりに察しているらしい。叔父の幸せを素直に喜ぶ孫娘の姿に、冨美恵は目を細める。
「さーて。宿題やんないと」牛乳を一気に飲むと立ち上がる。その動作の機敏さは十代ならではだ。冨美恵は、あのような俊敏な動きはもう出来ない。
「お夜食は?」と冨美恵が聞くと、「お母さんが用意してくれてるから。パンケーキ。おっもいんだよねーあのひとの。あんなの夜中食べたら絶対太っちゃうっての。そんでも、親の期待に応えるのが子どもの役割ですから」
「まあ……」大人びた発言をするさつきに冨美恵は笑った。二世帯同居をする彼らの姿を見て、なにかしら学習したのだろう。さつきは、フラットな思考の持ち主だ。母親の肩を持つでもなく、父親や祖母の肩を持つのではなく、そのときどきによって位置を変える。その柔軟性が目に眩しい。
「あとで、お紅茶を入れてあげるから……あまり、根を詰め過ぎないようにね?」
「はぁい」言ってさつきはドアの向こうへと消えた。静寂だけが、取り残される。夫は既に寝室だ。魔の時間とでもいえようか、このような孤独と向き合い、冨美恵は、自分に残された時間がどれほどなのかと考えようとする。あと三十年もすればこの命は尽きている。
ならば。
後悔のない道を選びたい。散々過ちを犯した。決して他人に説教を出来るような、聖人君子ではなかった。だが過ちを犯した自分だからこそ、出来ることがある。
明日も忙しい。息子たちの幸せな画像を眺め、幸せに浸りながら、冨美恵は、明日に立ち向かう覚悟を固めた。どんな明日が待つか分からない、けれども幸せに生きてやろうと決めた明日へと。
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