ある日、鈴子はクリスタル・タワー最上階へ向かうエレベーターのボタンを押した
エレベーターの鏡に映る自分をちらりと見つめた、紺のテーラードスーツに白いブラウス、髪はきっちりまとめ、薄いメイクで清潔感を強調した、手に持つ黒い革のフォルダには、履歴書と鈴子が作成したこれまでの伊藤冷凍食品の企業研究ノートが収まっている、彼女の心臓は最上階への上昇と供に少しずつ速く打ち始めた
ブツブツ・・・
「落ち着いて・・・募集をかけられる前に出し抜くのよ・・・」
鈴子は自分に言い聞かせたが、内心は緊張でいっぱいだった、エレベーターが「最上階」と告げる電子音とともにドアが開いた、そこは想像を遥かに超える世界だった
最上階の『会長オフィスフロア』は本社の社員でもめったに足を踏み入れられない聖域だった、ガラス張りの窓がはめられているの廊下からは神戸港のコンテナ船が見え、壁には伊藤冷凍食品の歴史を刻む和風の書画が飾られていた、受け付けフロアはまるで大きな会場のホールの様になっていた
ギャラリーには盆栽が静かに佇み、接客室がいくつもパーテーションで区切られていた、それぞれの壁には「和食を世界へ」と書かれた伊藤定正の直筆パネルが飾られていた
そしてさらに驚いたのは受付前のフロアは女子社員でいっぱいだった、椅子に座っている者、椅子が足りないのか、壁に寄りかかっている者、皆が一斉にヒソヒソと話していた
「秘書の募集はまだしておりませんので、みなさんが会長にお会いになれるのは何時になるかわかりませんよ」
困り顔の受付嬢は同じ言葉を何度も繰り返していた、鈴子の後ろからポンッとエレベータが開き、また一人若い女子社員が秘書の面接を受けようとやってきた
「秘書の面接はやるんですか、やらないんですか?」
女の子の女子社員が詰め寄った
「やると思いますよ・・・ですが―――」
受付嬢は絶句して面接待ちの女子社員達を見回しながら言った
「採用はまだ決まってないんでしょ?」
また誰かが呟いた
その時受付カウンターの奥から重役室の重厚なドアが開いて、一人のグレーのスーツの男性が出てきた
中肉中背で、一日おきにスポーツクラブにでも通ってそうな体格の、比較的重役にしては若い男性だった、カールした黒髪はもみあげが長く、いかにもやり手らしい顔つきだ
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