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「忙しいから、しばらくは無理」
<えっー。約束したじゃんっ>
あれ……?
今、有栖のうしろから男の人の声が聞こえた気がする。
<有栖さん、ご飯できたけど。誰と電話してるの?>
ドクンと大きく心臓が鳴る。
この男の人の声、私は知っている。
毎日聞いている声だから。
ギュッと手のひらを握りしめる。
「ていうか、彼氏いるじゃん。うしろから男の声、聞こえたんだけど」
玲央も声が聞こえたのか、有栖へ問いかけた。
<彼氏じゃないよ……。ごめん、隼人くん。ちょっと電話しているから。向こうに行ってくれる?>
<わかった>
今、有栖は隼人って言った。
男の人の声、絶対、隼人の声。
私が家にいないから、隼人は有栖を家に呼んだってことだよね……。最低!
有栖も私には何の連絡もない。
夫が一人いる部屋へ行くって友達としておかしい。
もしもやましいことがなかったら、一言くらい私に連絡できるはず。
「とりあえず、忙しくて無理だから」
玲央は有栖には素っ気ない。
有栖に気持ちがないことが、はっきりしている。
これなら、有栖だって脈なしだってことくらいわかるよね。
<えっー。来月……>
「じゃあ」
玲央は有栖の言葉途中で電話を切った。
「穂乃果、ごめん。聞こえたよね?」
「うん。聞こえた」
相手は有栖で、そのうしろから隼人の声がしたこと。
隼人は電話でご飯ができたって言ってた。
今、私の家に有栖がいる可能性が高い。
私、隼人にも浮気されて、友達だと思っていた有栖にも裏切られていたってこと?
夫と友達が浮気?
こんなことが自分の身にも起きるんだ。
「関谷有栖、結構、しつこいんだ。はっきり断ってるんだけど」
メンタル強いよなと玲央は呟く。
「そうだね……」
どうしてだろう。
夫と親友が浮気をしているのに、こんなにも落ち着いている。
疑いだった時は、怒りと悲しみが強かったのに。
今は違う。どうして……?
私、なんかほっとしている。
「穂乃果?どうした?」
一点を見つめて動かない私を心配して、玲央は声をかけてくれた。
「有栖が……。私の夫と浮気してるみたい。今、有栖のうしろで男の人の声が聞こえたでしょ。その男の人、私の夫なの」
「……。マジか」
玲央は驚いているようで、目を大きくさせた。
ふぅと大きく深い息を吐いた私に
「俺に何かできることある?」
玲央は声をかけてくれる。
「どうしてだろう。もしかしてって思った時は、すごく嫌な気持ちだったのに。今はやっぱりかって思って」
心が痛みを感じていない理由――。
「私、夫婦関係、どこかでもう終わりかもって思っていたから。夫が浮気をしていて、スッキリした。変だよね」
私の言葉を遮ることなく、玲央は黙って聞いてくれている。
「これで簡単に別れられるって思ったのかも」
相手が浮気をしているんなら、離婚する時に隼人に非がある。
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義母だってうるさいことは言えないはず。
「それ、本気で言っている?」
「うん。本気」
隼人と別れるんだ。
私の中で何かが弾けて、なくなった気分。
決心したら、身体の中が空洞になって、真っ白な状態になった気がした。
「心のどこかで張り詰めていた糸が切れたみたい」
そう。私はたしかに隼人のことが好きだった。だから隼人の夢を応援しようと自分なりに頑張ったと思う。
「旦那はね、夢を追っていて、まだそれがカタチになっていないから収入もなくて。私が代わりに頑張って働いて支えようって思っていたの」
だから残業もほとんど毎日頑張っていたけれど。
「私は弱いから、それがいつまで続くのかわからなくて。どこかでいつも不安と闘っていて」
あれ、言葉が止まらない。
ずっと奥に閉まっておいた、言ってはいけないと思っていたことが、溢れてくる。
「支えられるのかなって心配だった。私は働くから、せめて家事を手伝ってほしいって言ったこと、間違っていたかな?」
あれあれあれ。今度は、涙が出てきそう。
玲央にこんなこと話すのは卑怯だ。わかっているのに。
「義理のお母さんとの関係も正直嫌だった。自分の意見を言うといつも怒られて。夫のことを理解するのは妻の役目だって」
グスンと鼻をすすり、涙を手の甲で拭く。
こんなことまで話し出した自分は、相当おかしい。玲央だってこんなこと急に伝えられて、泣き出されても困るよね。
気持ち悪い、ヘンな奴って思われたかな。
私、昔みたいに自分が好きじゃない。
胸を張って生きられない。もっと辛い想いをしている人はたくさんいるはずなのに。
「ごめん。玲央に話すことじゃないのにね」
同性からしたら、きっと嫌な女になっている。元カレに夫のことを愚痴る女。かわい子ぶってるなんて思う人もたくさんいると思う。でも止められなかった。
きっと玲央は――。
「辛かったよな。嫌だったこと、全部吐き出して良いから」
そう言って、私を優しく抱きしめてくれた。
コメント
1件
うわっ……この回、心臓がギュッてなったわ。有栖の後ろから隼人の声が聞こえた瞬間、マジで鳥肌立った。でも一番刺さったのは、穂乃果が「ほっとしてる自分に気づく」ところ。長年抱えてきた不安や抑圧が、夫の浮気でやっと解放される感じ、すごくリアルだった。玲央がただ黙って話聞いて、最後に抱きしめてくれるのも沁みたな……。煉彩さん、人間の感情の機微を描くの上手すぎる。続き、穂乃果がどう動くのか気になるわ🔥