テラーノベル
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昨夜のことは、全部夢だったんじゃないだろうか。
そんなことを考えてしまうくらい夢見心地で
重い体を引きずって出社した私は、午前中ずっと、仕事が手につかなかった。
キーボードを叩くふりをしながら、視線はつい高橋先輩を追ってしまう。
先輩はいつものように、同僚たちと談笑しながらテキパキと仕事をこなしていた。
昨夜、私を抱きしめてくれたあの腕も、あの強い眼差しも、今はどこにも見当たらない。
(やっぱり、先輩にとってはただの『ハプニングの介抱』だったんだよね……いや、当たり前なんだけど…なにか進展あったりしないかな、なんて期待しちゃった…)
当たり前の結論に、胸がちくりと痛む。
せめてお礼だけでも、とタイミングを伺っているうちに、昼休みになってしまった。
先輩は案の定、お弁当を持った女子社員たちに囲まれている。
その中心で、困ったように笑いながらも上手く場を回している姿を見て、私は立ち尽くしてしまった。
私なんかが入り込める隙なんて、一ミリもない。
「───田中さん」
諦めて席に戻ろうとしたとき、名前を呼ばれた。
見上げると、いつの間にか輪から抜け出した高橋先輩が、私の目の前に立っていた。
「あ、高橋先輩。あの、昨日は……」
「ごめん、田中さんに少し用件があるから、また今度」
先輩は女子社員たちに爽やかな笑顔でそう告げると、自然な動作で私の肩を軽く叩いた。
「行こうか」
「えっ、あ、はい……!」
背中に刺さる女子社員たちの視線を感じながら、私は先輩に連れられて社内のカフェへと向かった。
向かい合って座ると、先輩はいつもの優しい表情に戻っていた。
「体調は、もう大丈夫?」
「はい、おかげさまで。……本当に、昨夜はお世話になりました…!何か、お礼がしたいんですけど…」
食い下がる私に、先輩は「礼なんていいよ」とやんわり断る。
「そ、それじゃあ、私の気が済みません……!」
私が精一杯の勇気を出してそう言うと、先輩は少しだけ黙って、何かを考える素振りを見せた。
「……それじゃあ、なんだけど。あ、一応言っておくけど…これはセクハラのつもりじゃないよ?」
先輩は少し真剣な顔をして、身を乗り出した。
「田中さんって、今、彼氏とか……好きな人とか、いるのかな」
心臓が跳ねた。まさか、そんなことを聞かれるなんて。
(本当は、目の前にいる先輩が大好きです───)
なんて言えるはずもなく、私は必死に動揺を隠して答えた。
「えっ…い、いませんよ…?」
「そっか。なら……少しお願いがあるんだ」
先輩は声を潜め、困り果てたような、でもどこか必死な表情でこう続けた。
「実はお局の…美佐子さんに、最近すごくしつこく誘われていて困ってるんだ。合コンも頻繁に誘われるし、仕事に支障が出るレベルで」
「確かに先輩ってモテますし、そういうの多そうですよね……社長に相談してどうにかしてもらうとかはできないんですか…?」
「まあ…そんなの適当にあしらえって言われちゃってね。だから……彼女が諦めてくれるまで、俺の恋人の『フリ』をしてほしいんだ」
「えっ?フリ、ですか?」
「ああ、偽装恋人ってところかな」
────偽装恋人
予想もしなかった言葉に、私は言葉を失った。
「田中さんになら、安心して頼める気がして。…嫌だったら無理にとは言わないんだけど」
先輩の真っ直ぐな瞳が私を射抜く。
嘘から始まる関係だとしても、先輩の隣にいられる。
私は、震える声を抑えながら、ゆっくりと頷いた。
「……私で、お役に立てるなら。喜んで」
これが、私の切ない恋をさらに加速させる「秘密の契約」の始まりだった。
#ワンナイトラブ
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