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息が止まるかと思った。
黒いダイヤルを回す。右に五、左に三、左に五、右に二、右に六。
少し屈んで中を覗くと、携帯電話料金の明細書と、マンション管理会社からの黄色い注意チラシが入っていた。
(今月、ちょっと使いすぎちゃったかな……)
自動ドアが開いた瞬間、ロビーに人の気配を感じた。
背の高いベンジャミンを囲むように置かれたベージュの合皮ソファ。
暖色のペンダントライトに照らされた女性は、黒っぽいAラインのワンピースを着ていた。
胸までの緩やかな巻き髪。一見して可愛らしいタイプだった。
(……え)
二度見したその顔は、紛れもなく――
奈良くんの携帯電話の待受画面に、いつも微笑んでいた女性だった。
満島瑠璃。
私は平静を保てていただろうか。
怪訝そうな顔はしなかっただろうか。
ハガキを持つ指先が、小刻みに震えていた。
脇に冷たい汗が滲み、足がすくんだ。
(私の顔は……知られていないはず)
早足でエレベーターホールに向かう。
エレベーターは七階で止まったままだった。
上階へのボタンを何度も押し、早く、早く、一刻も早く降りてきてと心の中で祈る。
もし、もし瑠璃さんが私の顔を知っていたら?
そもそも私の存在を知っているの?
背後に彼女が立っているのではないかと、喉仏が何度も上下した。
(早く……早く、来て!)
チーン。
その音に安堵の息が漏れ、私はエレベーターの中に駆け込んだ。
八階の黄色いボタンを押し、扉がゆっくり閉まる。
その細い隙間から、瑠璃さんがこちらを覗き込んでいるのではないかと思い、思わず目を瞑った。
(どうして……どうして私がここまで瑠璃さんを恐れなければならないの)
不倫をしているわけではない。
恋人がいる男性が心変わりをした。
その相手が自分だというだけ。
罪を犯したわけでも、世間に罰せられることでもない。
(別れ話……? 別れ話をしに来たの?)
廊下を走るパンプスの音が、水の中で聞こえるようにくぐもって響く。
黒いビジネスバッグから鍵を取り出そうとするが、手が震えてなかなか見つからない。
ようやく鍵を握り、鍵穴に差し込むも、指先がガタガタと震えてすぐに扉を開けられなかった。
(でも、奈良くんは土曜日に金沢に行くと言っていた……はず)
振り返った窓の外では、夕暮れの空がどんよりと黒い雲に覆われ、今にも雨粒が落ちてきそうだった。
その重い空が、佐川さなの不安をさらにかき立てていた。
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