テラーノベル
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自動ドアの向こうでは、アスファルトに雨の水煙が上がっていた。
日が暮れ、降り出した雨で外気が冷えたせいか、ロビーの空調が効きすぎて、素足に黒いサンダルでは足元から冷たさが這い上がってくる。
ここに着いてから、もう三時間以上が経っていた。
尿意をもよおした瑠璃は、向かいのコンビニに駆け込もうか何度も考えた。
(その間に建が帰ってきたら……)
そう思うと、また「もう少し、もう少し」と時間が過ぎていく。
道路を走る車の白いヘッドライトが点き始めた頃、自動ドアが勢いよく開いた。
髪の毛から雨粒を滴らせ、白に青の細いストライプが入ったワイシャツを着た男性が飛び込んできた。
肩と背中はびしょ濡れで、腕には紺色のスーツジャケットを提げている。
「建」
その声に、男性はびくりと飛び上がった。
ロビーに立つ瑠璃の姿を見て、驚愕と――明らかに動揺した目をした。
それは、恋人との再会を喜ぶ表情では、決してなかった。
「瑠璃……」
「久しぶり。元気だった?」
「来たのか」
元気だったかの問いには答えず、建はただ一言だけ返した。
瑠璃は息を呑んだ。
やはり、もう建の心には自分がいない。
大凡の予想はついていたのに、いざ目の当たりにすると、足元から崩れ落ちそうな感覚に襲われた。
「トイレ……行きたいんだけど」
「お、おう」
「何階?」
「五階。いつ来たんだ?」
「お昼頃」
「言ってくれれば半休取ったのに」
(嘘)「ごめんね、突然押しかけて来ちゃって」
建は無言でエレベーターホールに向かい、上階ボタンを押した。
エレベーターは八階で止まったままだった。
(まさか……佐川さんと会って?)
鼻腔がスゥと鳴る。
チーン。
五階の黄色いランプが点灯する。
ワイシャツの脇に不快な汗が滲み、雨で濡れた身体が冷えていく。
左横に立つ瑠璃の熱が、痛いほどに感じられた。
頭の両端が何かに強く挟まれ、ジンジンと痺れている。
まさか、瑠璃が富山に来るとは、思いも寄らなかった。
チーン。
廊下の窓からは、雨に烟る富山市中心部が見渡せた。
あれは市電から見た富山県庁の建物だろう。
「見晴らし良いね」
「天気が良いと、富山城がちょっとだけ見えるよ」
「へぇ」
「桜の時期は綺麗だ」
「見てみたかったなぁ」
「来れば良かったのに」
「建が来いって言わなかったし」
「そうか」
「うん」
二人の会話は、すべて過去形だった。
次の桜の季節には、もう一緒にいないのだと、互いに告げられているような気がした。
カチャリと鍵が開き、部屋に入るとグルーミングシトラスの香りが瑠璃を包んだ。
建の整髪料の匂い。
この匂いに指先を絡めて、何度もセックスをした。
身体の芯が、じわりと熱を帯びる。
「懐かしい……この匂い」
「おまえ、この匂い好きだったもんな」
「……うん。あ、トイレ借りるね」
「おう。俺、ちょっとシャワー浴びるから、座って待ってろ」
「うん」
「冷蔵庫の中、何でも飲んでいいぞ」
建はそう言うと、シャワールームへと姿を消した。
キュッ、バタン。
熱いお湯がすりガラスのドアに激しく叩きつけられる音が響く。
トイレから出てきた瑠璃は、冷蔵庫の扉を開けた。
(……ヨーグルト)
建は「これ、腐ってんじゃないの?」と毛嫌いしていたはずのヨーグルトが、整然と冷蔵室のLEDライトの中に並んでいる。
何気なく寝室を覗き込むと、柑橘系の香りに混じって、ウッディな残り香が漂っていた。
ここに、セミダブルベッドのあるこの部屋に、誰かがいた。
(これ……これって)
ベッドサイドのテーブルに、黒く長細い小箱が置かれていた。
空だったが、それは確かに口紅のパッケージ。
リビングの明かりの下で確認すると、金色の文字で「資生堂 マキアージュ OR301」と書かれている。
大きな溜息が漏れた。
リビングのソファに腰を下ろす気にはなれなかった。
瑠璃はカーペットの上に、力なく座り込んだ。
シャワーを終えた建は、黒いTシャツに黒いハーフパンツという出立ちだった。
首に焦茶のフェイスタオルを垂らし、忙しなく髪を拭いている。
いつも緩やかなツーブロックのパーマヘアーは、湿り気で細かなカールを描いていた。
瑠璃は、二ヶ月半ぶりに見る恋人の顔を、まじまじと見た。
(この人が……こんな顔をしていたっけ?
こんな仕草を?
こんな雰囲気だったっけ?)
いつの間にか、その横顔は完全に知らない他人の表情になっていた。
「ソファ、座らないの?」
「いい」
「そっか」
「うん」
建は冷蔵庫を開け、グレープフルーツサワーの缶を二つ取り出した。
一つを瑠璃に渡し、もう一つはプルタブを開けてごくごくと飲み始めた。
瑠璃は水滴の付いた冷たい缶を指でなぞりながら、言葉を探していた。
「今日、泊まっていくだろ?」
「え?」
ゾッとした。
他の女性とセックスをしたベッドに寝ろと言うのか。
瑠璃は、建が張りつけたような笑顔を、心底おぞましく感じた。
自分が恋をした人は、こんな上辺だけの言葉を、息を吐くように口にする人間だったのか。
知らなかった。知りたくもなかった。
「ううん。突然来たから、駅前のルートインに予約してある」
「そっか」
瑠璃は、建が一瞬浮かべた安堵の表情を見逃さなかった。
「泊まっていくだろう」と言いつつも、本心ではそれを望んでいなかったのだ。
「ねぇ、建」
「なに?」
「LINE、もう止めよう」
「え?」
瑠璃はテーブルの上に、自分のピンクの携帯電話を置いた。
キャメルの革カバーを開くと、そこには金沢駅で撮った、ピースサインをする二人の笑顔が映っていた。
「建の携帯、見せて」
「何で」
「いいから、見せて」
「……ちょっと待ってろ」
建はハンガーに掛けたスーツのポケットから黒い携帯電話を取り出し、テーブルの上に置いた。
そこに表示されていたのは、無機質な色合いの壁紙だけだった。寿の情報は、正しかった。
「壁紙、変えたんだ」
「あ、あぁ。瑠璃の画像だと会社の奴らに弄られるからさ」
「そっか」
瑠璃は左の薬指から、瑠璃色の指輪をゆっくりと抜いた。
それは揺れ動く心情を表すように第二関節で引っ掛かり、少し力を込めなければ外れなかった。
ようやくそれを外すと、静かにテーブルの上に置いた。
シーリングライトの明かりに、指輪が艶やかに光る。
瑠璃と建は、無言でそれを眺めていた。
隣室の住人が帰ってきたのだろう。鍵を回す音、玄関扉が開く音、そしてガヤガヤとした話し声が聞こえてくる。
金曜の夜の飲み会でも始まるらしい。
「これ、どういう意味?」
「そういう意味」
「なにが」
「好きな人ができたの」
「え……?」
「私、建の他に好きな人ができたの」
瑠璃はテーブルの上の瑠璃色の指輪に視線を落とし、ゴクリと唾を飲み込んだ。
そして、精一杯の笑顔を作り、狼狽える建の顔を見上げた。
ピンクに彩られた唇を小さく窄め、静かに言った。
「ごめんね」
瑠璃はそれだけを告げると、ピンクの携帯電話をショルダーバッグにしまい、チャックを静かに閉めた。
外では雨音がベランダの室外機を激しく叩いている。
黒いAラインのワンピースを少したくし上げ、冷たいフローリングの上を素足でペタペタと玄関へ向かった。
片手を下駄箱の縁に添え、黒いサンダルを履く。
振り返ると、逆光の中で建が呆然とした顔で、首にかけていたフェイスタオルを外しているところだった。
「る、瑠璃……?」
「今まで、ありがとう」
「ちょ、待って――」
「さよなら」
「か、傘は!」
「要らない」
重い臙脂色の扉が、静かに閉まった。
エレベーターホールに立つと、無情にもエレベーターは五階で止まったままだった。
階下へのボタンを押すと扉が開き、瑠璃は中に入って向き直った。
扉がゆっくり閉まる。
建は、追いかけては来なかった。
四階、三階……と降下するエレベーターのガラスに、瑠璃の頰を伝う涙が、ぼんやりと映っていた。
そしてマンションのロビーに出た瑠璃は、途方に暮れた。
市電の最終便23:26はとうに過ぎ、雨足はますます強くなっている。
(あ……そうか。タクシーに乗ればいいんだ)
エントランスから身を乗り出し、大通りを窺う。
交差点の信号が青に変わり、一台のタクシーが対向車線を走ってくるのが見えた。
通り過ぎるのを覚悟で右手を挙げると、タクシーはウインカーをチカチカと瞬かせ、大きく転回してマンションの前に横付けした。
後部座席のドアがバタンと開く。
「あの、ごめんなさい」
「はい、なんですかね」
「反対方向なんですけど……良いですか?」
「あぁ、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
瑠璃は雨を避けるように、後部座席に滑り込んだ。
黒い革の座席がぎしっと軋む。
ルームミラー越しにドライバーが行き先を尋ねてきた。
「どちらまでですかね」
「あ、富山駅前の、南口のルートインまでお願いします」
「あぁ、はいはい。深夜料金で割増になりますけど」
「大丈夫です」
タクシーがゆっくりと発進する。
初めて訪れた富山の街は、雨に煙っていた。
油膜の張った窓ガラスに、街灯や信号、対向車のヘッドライトがぼんやりと滲んでいく。
帰ろう。
金沢へ、帰ろう。
瑠璃の、ひとつの恋は、ここで終わりを告げた。
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