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翌朝、私はお兄ちゃんのマンションへと移った。
徹さんの部屋に比べれば狭いけれど、都心にあって2LDKのおしゃれなマンション。
兄弟のくせに今まで入ったこともなくて、私は初めて足を踏み入れた。
「随分綺麗ね」
男の人の一人暮らしにしてはきちんと片づいた部屋。
整理整頓が行き届いていて、生活感がない。
お兄ちゃんがここまでするとは思わないから、きっときれい好きの彼女がいるんだろう。
「ここは寝に帰るだけだしな」
仕事が忙しいお兄ちゃんは会社に寝泊まりすることもあるらしいし、出張だって多いからしかたない。
「そんなに忙しいのに、急に帰ってきて大丈夫なの?仕事、大変なんでしょ?」
今回の出張は明後日までの予定だって聞いていたし、急なトラブルによるもののはずだから、無理して帰ってきたんじゃないだろうか。
「バカ、お前が気にすることじゃない」
「そんな・・・」
お兄ちゃんが私のことを心配してくれているのはよくわかっている。
ありがたいとも思う。
でも、そのことが私にとって負担なんだって、お兄ちゃんは気づいていない。
心配される方も辛いのに・・・
***
「奥の部屋を使ってくれ」
「うん」
言われて通された部屋にはベットと布団が用意されていた。
「昨日のうちに急遽用意したから気に入らないかも知れないが、追々買い換えてやるから」
「いや、これで十分よ」
窓にはイエローのカーテンが掛けられ、小さなチェストに下着や部屋着など私のために用意されたと思われる衣服が入っている。
これだけあれば困ることはないだろう。
「とにかく、休んで体を治せ。後のことはゆっくり考えれば良い」
「うん」
お兄ちゃんの言う『ゆっくり』がいつまでなのかはわからない。
私は明日まで休んだら、明後日から仕事に復帰するつもりでいる。
でも今ここでそれを言えば喧嘩になりそうで、頷くしかなかった。
「これから何かあれば、俺に知らせろ。いいな?」
これは、徹さんには知らせずにって意味。
親友でもある徹さんに対する精一杯の牽制なんだろう。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「今回のことは私の責任だから。徹さんに無理なお願いをしたのは私だし、黙っていてほしいって言ったのも私なの。だから、」
「わかってる。これ以上徹を責めるつもりはない」
「そう」
よかった。
私のせいでお兄ちゃんと徹さんの仲がこじれたらイヤだもの。
***
お兄ちゃんのマンションで2日間を過ごし、私はすっかり元気になった。
普段仕事が忙しくてなかなか休みも取れないはずのお兄ちゃんが、食事の世話から洗濯まで全部してくれたお陰で体も休めたし、隠し事がなくなって精神的にも楽になった。
しかし、だからといって全ての不安がなくなったわけではない。
お兄ちゃんは今の病院を変わるか、長期の休暇を取らせたがっているし、私にはそのつもりはない。
お互いの思いは平行線のまま。
「乃恵、仕事のことだけど」
一緒にいる間に何度か言いかけたお兄ちゃん。
「ごめん、疲れたから」
そのたびに話をはぐらかし、私は部屋に逃げ込んだ。
まともに向き合えば喧嘩になりそうで、避けたかった。
結局本題に触れることもなく、出勤の朝を迎えてしまった。
朝6時。
いつもより早い時間に、私は目が覚めた。
久しぶりにお化粧をして、着替えをすませる。
鏡に映る私の顔は血色も良く、元気そのもの。
黙っていれば病み上がりと気づかれることもないだろう。
「さあ」
気合いを入れた。
リビングに出れば、きっとお兄ちゃんがいる。
たとえなんと言われても私は仕事に行くつもりだけれど、正直怖い。
でも、行くしかないんだ。
バンッ。
不安を打ち消すように、勢いよくリビングのドアを開けた。
***
「おはよう」
「おはよう」
Tシャツにジーンズの普段着のお兄ちゃん。
一方私は、スカートにブラウスとジャケットの通勤着。
手には出勤用のカバンも持っているから、仕事に行くつもりなのは一目瞭然。
「どうしても行くのか?」
心配そうに、お兄ちゃんが私を見る。
「うん、元気だから」
だから反対しないでの思いを込めた。
「せめてあと1週間くらい休めないのか?」
「無理だよ」
私にだって受け持ちの患者はいるし、シフトだってある。
私が休めば誰かに負担が掛かるから、これ以上の無理は言えない。
「じゃあ、辞めろよ」
「はぁ?」
何を言われたのか理解できず、ポカンと口を開けた。
「そんな職場なら辞めてしまえ」
「そんな・・・」
まんざら冗談でもなさそうな真剣な顔のお兄ちゃんを見て、私は固まった。
お兄ちゃんは本気で言っているんだろうか?
ここまで来るのに私がどれだけ苦労したかを、知っているはずなのに。
「せめて、来週まで休めないのか?」
「だから、」
強い口調で言い返しそうになって、言葉を止めた。
いくら言っても無駄だ。
こと体調に関しては、お兄ちゃんはひかないだろうから。
「もういい、行ってきます」
「乃恵っ」
怒鳴るお兄ちゃんの声を背中に聞きながら、私は駆け出した。
「待て、走るな。乃恵、走るなぁ」
切羽詰まったお兄ちゃんの声が、少しずつ遠くなっていく。
立ち止まればお兄ちゃんに捕まってしまう。わかっているから、止らなかった。
お兄ちゃんも、私が暴走するのを心配して強引な手には出ない。
全てわかっていて、私はわがままを通した。
***
マンションを飛び出して、お兄ちゃんが追ってこないことを確認して歩を止めた。
しかし時刻は朝の7時前で、このまま病院へ行くにはかなり早い。
しかたなくどこかで時間を潰そうと、私は駅へ向かうことにした。
その間にも、ポケットの中の携帯は震え続けている。
きっとお兄ちゃんだろうな。
本気で追いかければ、私を捕まえることなんて容易いことだけれど、お兄ちゃんはそうしない。
無理強いすれば私が余計に無茶をするって分かっているから。
さっきマンションを飛び出した時も、お兄ちゃんが追いかけてくれば、私は全力疾走で走っただろう。そのくらい私も本気だった。
そして、全力で走れば、私の心臓は壊れてしまうかもしれない。
お兄ちゃんはそれが分かっているから、追ってこなかった。
ブーブーブー。
何度無視しても、着信は止まない。
いっそ電源を落としてやろうかと思うけれど、それもできない。
一体私は何をやっているんだか。
***
とりあえず駅前のコーヒーショップに入り、窓際のカウンター席に腰を降ろした。
目の前には注文したホットコーヒーがあり、ザワザワとした喧噪が耳に入ってくる。
いつもと変わらない日常。
当たり前の1日。
何も特別ではないのに、今の私には込み上げるものがある。
まだ湯気を立てるコーヒーを一口飲み、
フゥー。
と、息を吐いた。
その時、
ブーブーブー。
カウンターに置いていた携帯が震えた。
お兄ちゃんかなと思ってみると、
えっ?
麗子さんからだ。
確かに、連絡先の交換はしたけれど・・・
まさか掛かってくるとは思わなかった人からの電話に驚いた。
そして、
「もしもし」
思わず出てしまった。
『もしもし、乃恵ちゃん?』
「はい」
『よかった、出てくれて』
麗子さんのホッとした声。
「もしかして、お兄ちゃんから連絡がありました?」
このタイミングでの電話は他に理由が思い当たらない。
『うん。10年ぶりに来た連絡が「妹に電話してくれ」なんて、笑わせるわよね』
フフフと、楽しそうに笑う麗子さん。
「すみません」
私としては謝るしかなかった。
***
『体調は、大丈夫なの?』
「ええ、もう平気です」
『そう』
「あの、心配かけてすみません」
お兄ちゃんに対しては色々と思うところがあるけれど、麗子さんにはただ迷惑をかけただけで申し訳ない。
「乃恵ちゃんだって働いているんだから、自分の都合ばかり言っていられないのも理解できるわ」
「麗子さん」
ちょっとだけ胸が熱くなった。
気持ちが理解できると言ってもらったことが、素直に嬉しかった。
私だってお兄ちゃんには感謝しているし、もし立場が逆だったら絶対に止めただろう。
でも今の私は、どうしても仕事に行きたい。
「無理をせずに、休みながら仕事をしなさいね」
「はい」
どうして麗子さんには何もかも分かってしまうんだろう。
こんなお姉さんが欲しかったな。
「誰よりも乃恵ちゃんを心配しているのは陣だからね」
「はい」
「あとでいいから、陣に連絡を入れなさい」
「・・・」
それでも返事ができない意固地な私に、
「もう、しかたがないわねぇ」
電話の向こうから、麗子さんの溜息が聞こえた。
***
「陣はね、ここ数日乃恵ちゃんに付き添うために仕事を休んだのよ。あの仕事の鬼が」
「はあ」
薄々気づいてはいた。
忙しいはずのお兄ちゃんが3日もまとめて休みが取れるはずないもの。
「それに、徹も心配しているわ」
え?
突然徹さんの名前が出て、驚いてしまった。
「あの2人は親友なの。学生の頃からずっと仲が良くて、私はいつもうらやましかった。でも、今回ばかりはダメみたいね」
「え?」
ダメってどういう意味だろう?
「陣の奴、ここのところ徹と連絡も取ってないみたいだし。.鈴森商事の仕事も断るつもりらしいわ」
「そんな」
私のせいで、お兄ちゃんと徹さんの関係が壊れるなんてイヤだ。
「とにかく、陣には連絡すること。それと、徹にも。ああ見えてかなりへこんでいるから」
「嘘」
そんなはずはないの思いが、つい口に出た。
「本当よ。あのポーカーフェイスが、私が見てわかるくらいに落ち込んでいるわ」
徹さん。
できることなら私も会いたい。
たった数日顔を見ていないだけなのに、凄く会いたい。
でも、
「乃恵ちゃん、急ぐ必要も無理することもないからゆっくり考えなさい。みんなあなたの見方だから。ね?」
麗子さんはどうしてこんなに優しいんだろう。
後数年したら私もこんなお姉さんになれるんだろうか?
きっと無理だな。
「麗子さん、心配かけてすみません。お兄ちゃんには後でメールしますから」
「うん」
麗子さんはそれ以上は何も言わなかった。
私は電話を切り、飲みかけのコーヒーを流し込み、病院へ向かった。