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驚くぐらい自然に、私の職場復帰は完了した。
突然休んだことで嫌みを言われることもなく、逆に気を使われることもなく当たり前のように日常が戻ってきた。
「長谷川先生、これお願いね」
「はい」
「あー、先にこれやって」
「はいはい」
あまりにたくさんの仕事を抱えれば、「もう少し気を使えよ」「こっちは病み上がりなんですけど」なんて思う時があるけれど、元気に働けることが嬉しかった。
お兄ちゃんも仕事に戻り、マンションで顔を合わせることも少なくなった。
できれば早めに住むところを探したいけれど、お兄ちゃんの反対で仕方なくマンションに居候。
それでも、2日に1度ぐらいしか顔を合わせないせいかお兄ちゃんとの同居も苦にはならない。
あれ以来徹さんとの連絡が途絶えてしまって寂しい思いはあるけれど、お兄ちゃんの手前何もできず、麗子さんから電話で近況を聞くしかない状態。
正直、会いたいと思う。
どうしているんだろうと気になって仕方がない。
でも、今の私にはどうしようもない
***
勤務に戻ってから半月がたち完全に通常運転に戻った私は、また仕事に追われるようになった。
もちろん、同じ失敗を繰り返すことがないように体調も気にしながら薬も受診もサボることなく仕事に励んでいた。
そんな時、
「長谷川先生って、当直は無理なんだよね?」
今日当直予定の先輩ドクターが、意味ありげに私を見ている。
確かに、山神先生の指示で当直のシフトには入っていない。
でも、患者の様態によっては日付が変わるまで勤務することもあるし、突発的に人手がいるようなときは過去何度か当直に入ったこともある。
「どうかしたんですか?」
質問に答える前に聞いてみた。
「うん。子供と嫁が一緒に風邪をひいて、熱を出したらしくてさ」
なるほど。それは大変。
そもそもここのスタッフはみんな私の事情を知っているわけで、それでも言ってくるってことはそうとう切羽詰まった事情。
要は、当直を変わって欲しいんだ。
「いいですよ、変わりましょうか?」
今日の当直はベテランスタッフが揃っているし、入院患者も多くないからそんなに忙しくはならないはず。
それに、私の体調も悪くは無いし。
「いいの?」
「ええ」
山上先生の診断書だって、「長時間の勤務を避けること」とあるだけで当直がダメと書いてあるわけではないし。
部長には事後報告で大丈夫だろう。そう思った。
****
予想通りその日の夜勤帯は急患もなく、病棟から数回呼び出されただけで落ち着いていた。
しかし、この時私はちょっとしたミスを犯した。
本当なら、こんな暇な時は仮眠を取るべきだった。
何しろ前日の朝8時から夕方までの日勤後に当直に入りそのまま翌朝から夕方まで時間にすれば1日半の連続勤務。
当直の時には仮眠を取らないと体が持つはずもない。
分かっていたはずなのに、私は溜っていた事務作業に時間を使ってしまった。
「長谷川、当直に入ったの?」
朝病棟で顔を合わせた馬場先生が眉間に皺を寄せた。
「ええ、まあ」
「ふーん」
何か言いたそうな顔。
「でも、昨日は暇でしたから」
私もこれ以上突っ込まれたくなくて、なんとなく誤魔化した。
「あれ、長谷川先生。随分早いね?」
いつも通り出勤した部長も、チラッと時計を見る。
「ええ、まあ」
余計なことは言わないのが一番と、私は受け持ち患者のカルテチェックを始めた。
その後、当直を変わった先輩ドクターも出勤し、日勤帯の勤務がスタート。
このまま黙っていれば、何の問題も起こらないはずだった。
***
その日病棟勤務だった私は、回診をしたり、入院中の患者の対応に追われたり、救急外来からの呼び出しを受けたりと、かなり忙しく過ごした。
朝ご飯代わりにコーヒーとチョコを口にしただけで昼も食べ損ねてしまい、ゆっくり腰を下ろす時間もないほど働いた。
午後になり、動く度に息があがるのを感じていた。
マズイな。
そう自覚したのは午後4時を回り、後少しで勤務が終わると気持ちが緩んだ瞬間。
ああぁ。
いきなり目眩がして、
ガタンッ。
近くのカートに手をついた。
「大丈夫?」
雪菜ちゃんが、駆け寄ってきた。
「うん、大丈夫」
ごめんねと笑って見せたけれど、雪菜ちゃんの表情は堅いまま。
「乃恵」
少し距離を詰め、小声で私を呼ぶ雪菜ちゃん。
「分かっている」
ここで無理をすれば前回の二の前になる。
たとえ症状が軽くても受診をする。
それが人の命を預かる仕事をする者の責任だから。
心配そうな顔の雪菜ちゃんに向かって小さく頷くと、私はPHSをとりだした。
この時間の外来はすでに終わっているはずだから、受診するとすれば救急外来しかない。
でもまずは、
ピピピピ。
何度もかけなれた山神先生の番号をコールした。
***
救急外来を受診することも考えていた私に、
「病棟においで、何なら僕が産科に行こうか?」
と、山神先生は軽い口調で言ってきた。
「いえ、私が行きます。部長に報告してから行きますから少し待ってください」
「やっぱり僕が向かった方が早くない?」
「いいえ、私が行きますから」
山神先生に往診なんかされたら、また大騒ぎになってしまう。
今回は念のための受診だし、きっと入院なんて話にはならないはずだから、できるだけ穏便にすませたい。
自分が診察に行くという山神先生をなんとか説得し、私は部長に電話をしてから小児病棟へ向かった。
産科病棟と小児病棟は同じ本館の3階にある。
西棟と東棟に別れてはいるが、廊下で繋がっているため距離的にはとても近い。
それでも産科病棟を出れば、私は医者から患者に戻る。
白衣を脱ぎ小児病棟の入り口を入ることで、不安な気持ちになってしまう。
もしかしたらこのまま入院になるかも?
もしかしたらこのまま病院を出られないかも?
そんなはずはないと分かっていても、不安な気持ちは消えることはない。
トントン。
処置室と書かれた扉をノックすると、
「はーい」
山神先生の声が聞こえてきた。
***
「乃恵ちゃん、いらっしゃい。どうぞ」
机に向かって何か作業中だった山神先生は、私の方を向いてにっこりと笑ってくれた。
「すみません、時間外に」
本当なら救急外来で救命の先生に診察してもらうのが本来の手順なのに、また山神先生に甘えてしまった。
「いいよ、乃恵ちゃんのことは僕が一番分かっているんだから。それに、救急に行ってもそのうち僕が呼ばれると思うよ」
「まあ、確かに」
そもそも、高校生になった時点で小児科から循環器科に転科するのが普通。
二十歳を過ぎてまで、小児科の先生に診てもらっている私がおかしいのだ。
もちろん、病状や家庭環境のせいもあって山神先生が「もう少し僕が診ます」と言ってくれたからでもあるし、私も「高校を卒業するまで」「大学を卒業するまで」とズルズルと引き延ばしてしまった。
「じゃあ、始めるよ」
「はい」
かわいいウサギさんや熊さんのぬいぐるみが置かれたベットに横たわり、診察を受けることになった。
***
「うぅーん」
聴診の後部屋の照明を落とし心エコーを始めた先生の声が少し険しくなった。
あれ、もしかしてよくないのかな?
不安になって画面を覗き込む。
「乃恵ちゃん」
「はい」
何か言いたそうな口調で呼ばれ、緊張気味に返事をした。
「無理をしていない?」
「え?」
「勤務がキツいんじゃないの?」
「いいえ、そんなこと」
病気による制約のために思うように働けなくてもどかしいこともあるし、厳しいことを言われて泣きそうになるときもあるけれど、私はこの仕事が好きだし誇りに思っている。
落ち込んで逃出したくなることはあっても、辞めてしまいたいと思ったことはない。
「さっき、ここに入ってきたときに顔色が悪いなって気になっていたんだ。ちゃんと寝てる?食べてる?」
「ええ、今日はたまたま食べ損ねましたけれど、いつもは3食きちんと食べるようにしていますし、」
「たまたまって、最後の食事は?」
「えっと・・・」
ちょっと考えてから、口をつぐんだ。
私の最終の食事は昨日の夜食。
夜中の1時過ぎにカップラーメンを食べたのが最後だ。
さすがにこれは言えない。
「じゃあ、睡眠時間は?」
「えぇっと、昨日はカルテ整理と診断書の作成が手こずってしまって・・・仮眠室には行かずに医局のソファーでウトウトと、」
アッ。
マズイ。
「・・・」
「・・・」
薄暗い処置室で、無言の時間が流れる。
***
「当直の許可を出したつもりはないけれど?」
超音波を片づけて、部屋の照明を付けた山神先生がジッと私を見る。
「普段は入っていません。昨日は当直の先生の都合が急に悪くなって、それに私の体調もよかったし、大丈夫だと思ったんです」
実際勤務自体は凄く落ち着いていて、何の問題もなかった。
「でも、君は今ここにいるんだよね?」
「はあ、まあ、そうです」
自分の過信と、油断と、不摂生のせいで、体調を壊してしまった。
「君はね、自分に与えられた責任ってものに対する覚悟がなさ過ぎる。仕事に対して無責任すぎる」
普段厳しいことを言わない山神先生から出たとは思えない言葉に、私は固まった。
「今回のことは、産科部長に連絡をしておく」
「ま、待ってください」
そんなことをされれば大騒ぎになってしまうし、昨日当直を変わった先生にも迷惑がかかる。
それだけはなんとしても避けたい。
「主治医として見過ごすことはできない」
今にもPHSを手に電話をかけそうな先生を、
「お願いですから、やめてください」
私は必死に止めた。
***
「君だって分かっているはずだよね?」
何がと言いかけて、息を飲み込んだ。
今日の山神先生は怖い。
今までだって何度も叱られたけれど、こんな風に怒られたのは初めて。
とっても冷たい感じがして、この先何を言われるんだろうと身構えてしまった。
「医者なんだから、自分の体の状態は分かっているよね?」
「ええ」
先天性の心疾患。
それ自体決して珍しいわけではないけれど、程度としては中程度の症状で薬を服用しながら気長に付き合っていくしかない。
過度なストレスや急激な運動をすれば心不全を起す可能性も否定はできない。
でも、普通に暮らすには問題ないし、大人になって体力もついたから行動制限だってグッと減った。
「人の命なんていつどこでどうなるかわからないけれど、君は人よりもリスクを抱えている。それを承知で医者になりたいって言ったんだから、もっと自覚を持って行動しなさい」
「先生・・・」
それって、私みたいな子が医者になるべきではなかったってこと?
「主治医として言わせてもらう。今の勤務は君にとって負担が大きいと思う」
そんな、
「大丈夫です。私大丈夫ですから・・・」
お願い見捨てないでと、訴えた。
今ここで山神先生に見捨てられたら、私は立ち直れない。
***
「もっと仕事をセーブして、恋愛して結婚して家庭を持つとか考えないの?」
うなだれてしまった私に、いつもの声に戻った山神先生。
「考えないですね」
今は仕事で精一杯。
いつか結婚して子供を持ちたいとは思うけれど、まだまだ先のこと。
「今の仕事もかなりハードだけれど、出産となればさらに大変だからね」
「え?」
突然『出産』なんてワードが出てきて驚いた。
「折を見ていつか言おうと思っていたんだが、はっきり言わなければ分かってくれないようだから言わせてもらう。乃恵ちゃんの体では、出産は厳しいと思う」
「そんな・・・」
もちろん私だって、かなりリスクが高いことは分かっている。
でも私は元気だし、いざとなれば出産くらい
「少なくとも、僕は許可しない」
許可?
そもそも子供を産むのに許可なんて、
「それに、こんなハイリスクな出産を受け入れる病院なんて、ないと思うよ」
「・・・」
目の前に、ザーっと、砂嵐が見えた。
まるで死を宣告されたような気分になった。
どれだけ頑張ってもまともに働くことができない医者。
たとえ結婚しても子供を産むこともできない女。
ましてやその寿命さえ、人よりも短いかもしれない。
こんな私に生きている意味があるんだろうか?
この時、私は生まれて初めて、この世から消えてなくなりたいと思った。
***
その後どんな話をしたのか、どうやってその場をはなれたのか私には記憶がない。
気がついたら病院の屋上へ来ていた。
はあぁー。
手すりにもたれかかり、ため息をつく。
このままここから身を投げれば、すべてが終わる。
辛いことも悲しいことも、消えてなくなる。
でも、
「そんなことができるなら、もっと楽に生きられたのに」
フフフ。
場違いに笑いがでた。
その時、
「乃恵ちゃん?.」
不意に声がかかり、動きが止った。
この声には聞き覚えがある。
こんなタイミングで会いたくなかったけれど・・・
「乃恵ちゃんだよね?」
なかなか動かない私をもう一度呼ぶ声。
「はい」
今さら逃げることもできず、私は振り向いた。
そこにいたのは相変わらず美しい麗子さん。
身なりはいかにも仕事帰りなのに、整った顔立ちと凜とした立ち姿はやはりカッコイイ。
ちょうど麗子さんの後方から夕日が差して、私はまぶしくて目を閉じた。
「元気そうで、安心したわ。心配したのよ」
なぜだろう。
まぶしくて閉じたはずの目から涙が溢れる。
イヤだ。
涙なんて流したくない。
私はそんなに弱くないのに・・・
ボロボロと流れる涙を隠すこともできず、麗子さんの前で泣き崩れてしまった。
***
「はい、どうぞ」
コトンと目の前に置かれたグラス。
「ありがとうございます」
私は遠慮なくグラスに口を付けた。
中身は私がリクエストしたジンジャーエール。
さすがにアルコールは飲まない。
「よかったら、これもどうぞ」
カウンターの中から差し出されたお皿には、美味しそうな湯気が立っている。
「これは?」
聞くまでもなく焼きうどんなんだけれど・・・
ここは病院から少し離れた駅裏の小さなスナック。
病院の屋上で泣き崩れてしまった私を、麗子さんがここに連れてきてくれた。
「これはね、母さんの得意料理なの」
「へー」
カウンターの中で忙しく働く女性。
どうやらこの店のママさんらしい。
50代に見えるけれど、横顔が麗子さんに似た美人さん。
「どうぞ、食べて」
「はい、いただきます」
鰹節の乗った焼きうどんに箸を付けゆっくり口に運ぶと、お醤油の焦げたいい匂いが鼻を抜ける。
ウゥーン、美味しい。
具材のキャベツもタマネギもソーセージもみんな冷蔵庫にあるもので、味付けだって顆粒だしにソースとお醤油.。だけど、たまらなく懐かしくて美味しい。
これぞ家庭の味。
「美味しいでしょ?」
なぜか得意げな顔の麗子さんが、私を見ている。
「はい」
美味しいことに間違いはなくて、素直に頷いた。
***
「これね、徹も好きなのよ」
「え?」
急に徹さんの名前が出てきて固まった。
「徹も高校時代ここに来てよく、この焼きうどんを食べていたの」
「へー」
その頃の徹さんって、どんなだったんだろう?
かわいかったのかなあ。
生意気だったのかなあ。
案外やんちゃだったりして、
「乃恵ちゃんは徹が子供の頃の話は聞いた?」
「ええ。小学生の時にご両親が亡くなって、中学卒業まで社長さんの家で育ったって聞きました」
「そう。聞いたんだ」
「はい」
あれ、何かいけなかったんだろうか?
「徹ってね、ああ見えて警戒心が強いし、人に打ち解けていくのも得意ではないのよ」
「はあ」
私は初対面でいきなり声をかけられて、マンションまで連れて行かれたけれど。
「子供の頃に家族をなくしたせいか他人に本心を見せようとしないし、自分の思いを外に出すこともしないでしょ?」
「え、えぇ」
正直、「そうですね」とは言いにくい。
だって、私の知っている徹さんとは少し違うから。
「あのね、『無愛想で、無口で、かっこいいけれど冷たくて、でも仕事のできる切れ者』それが香山徹の一般的なイメージ」
「へえー」
「意外でしょ?」
「はい」
まるで別人の話を聞いているみたい。
****
私の知っている徹さんは・・・
確かに愛想が良いとわ言わないけれど、笑った顔はとってもかわいい。
お兄ちゃんほどよくしゃべるわけではないけれど、自分から色んなことを話してくれる。
スラッとした2枚目だけれど、部屋の中で着ているジャージは年期物でヨレヨレ。
強引で、頑固で、怒ると怖くて、でもとっても優しい人。
「それはね、徹にとって乃恵ちゃんが特別だってことでしょ」
「そんな・・・」
徹さんは私のことなんて、妹としか見ていないはず。
「もちろん、私も孝太郎も徹の良さはよくわかっているけれど、対外的には無愛想で冷たいイメージがついていると思うわ」
「そうなんですね」
なんだかかわいそう。
きっと、徹さんは子供の頃から1人で生きてきたんだ。
だから、
「乃恵ちゃんは徹のことが好きでしょ?」
「えっ」
即答できない。
「徹も、乃恵ちゃんが好きだと思うわよ」
「そんなこと」
あるわけない。
「じゃなきゃ、マンションに泊めたりしないわ」
私が徹さんのマンションに泊ったことはお兄ちゃんから聞いたんだと、麗子さんは教えてくれた。
悔しそうに愚痴るお兄ちゃんと、イエスもノーも言わずに黙り込んだ徹さんが面白かったと笑った。
当事者の私としてはお気楽に笑う気持ちにはなれなくて、目の前のジンジャエールを一気に飲み込んだ。
***
「そうだ乃恵ちゃん、明日はお休み?」
突然明日の予定を聞かれた。
「ええ、一応休みです」
緊急の呼び出しでもない限り病院に行く予定はない。
「じゃあ、ホテルで食事をしましょう。ご馳走するから」
「ホテルですか?」
話の流れから何か裏を感じるのは私だけだろうか?
「プリンスホテルのランチが美味しいって評判なのよ、一緒に行きましょ?」
目をキラキラさせて、私を見る麗子さんは迫力があって逆らえないオーラを感じる。
「麗子さん、何か企んでませんか?」
とってもイヤな予感がする。
「大丈夫。私は乃恵ちゃんのことを妹みたいに思っているんだから、乃恵ちゃんが嫌がることはしないわ」
「はあ」
そうですか。
そういうことなら是非お供したい。
麗子さんオススメのランチなんて、きっと素敵だろうから。
「11時にホテルのロビーでいいかしら?」
「はい」
まんまと乗せられた気がしながら、私は明日の約束をしてしまった。
そのことが自分の人生を変えることになるとも知らずに。