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第111話:開幕、同接20万人の衝撃〜伝説の始まりと、震える四十歳の膝〜
北海道、帯広市。
時計の針が、午後七時五十九分を指した。
築三十年のボロアパートの四畳半には、重く、張り詰めたような沈黙が降りていた。
聞こえるのは、PCの冷却ファンの微かな駆動音と、窓の隙間から吹き込む冷たい春の風の音。
そして、俺自身の、心臓が肋骨を突き破りそうなほどの激しい鼓動だけだ。
『ルシフェル社長。コラボ配信開始まで、残り一分を切りました』
ワイヤレスイヤホンから、アシスタントの結愛(ゆあ)の、普段と変わらない冷徹な声が響く。
「……ああ。わかってる」
俺、株式会社インフィニティ・ワン代表取締役・秋谷雪(四十歳)は、三万円のゲーミングチェアの上で、ガクガクと震える膝を必死に両手で押さえつけていた。
画面の中央には、結愛が特急料金で発注した、俺の新しいアバター【リアル秋谷モード】が映っている。
無精髭、マリアナ海溝より深いクマ、ラーメンの汁のシミがついたあずき色のジャージ。
右手には湯気の出る150円の限界みそラーメン、左手には画面の割れた格安スマホ。
これが、これから数十万人の目に晒される、「俺の真実の姿(ガワ)」だ。
そして。
俺の背後、わずか一メートルの距離には。
パイプ椅子に腰掛け、微動だにせずモニターを見つめる、帯広税務署・法人課税部門の調査官、黒岩の姿があった。
彼には、俺がこの「40歳底辺おじさん」と同一人物であるという【圧倒的な質感】を証明しなければならない。
さもなくば、会社はダミー認定され、数百万の追徴課税が下る。
背中に刺さる国家権力の視線が、俺の胃をギリギリと締め付けていた。
『ピローン♪』
AIのジェミニ先生が、モニターの端にポップアップを表示させた。
『ルシフェル社長。先方の配信枠の待機所データに、異常なトラフィックの集中を検知しました』
「異常なトラフィック……?」
『はい。現在、待機所だけで同接(同時接続者数)が八万人を突破しています。これは、当社がこれまで経験したことのない未知の領域です』
「はちまん!?」
俺は悲鳴を上げそうになったが、背後の黒岩を気にして必死に声を殺した。
開始前で八万人。
帯広市の総人口(約十六万人)の半分が、すでに俺の「黒歴史の開示」を待ち構えている計算になる。
『ルシフェル社長、深呼吸を。カウントダウンに入ります』
結愛のタイピング音が、まるで死刑台への階段を上る足音のように響く。
『十、九、八……』
俺は、目をギュッと瞑り、マウスを握りしめた。
『三、二、一……』
『相手の配信、スタートしました』
ターンッ! と、結愛がエンターキーを叩いた瞬間。
画面の向こうから、ミリオン登録者を誇る超絶大手VTuber、蒼月(そうげつ)の、底抜けに明るく華やかな声が響き渡った。
『みんなー! こんばんはーっ! いやー、今日も集まってくれてありがとう!』
圧倒的な陽のオーラ。
俺のような薄暗い四畳半の底辺とは住む世界が違う、正真正銘の「スター」の輝きが、モニター越しに伝わってくる。
『今日の配信はね、ちょっと特別なんだ。みんな、何年か前のあの企画、覚えてる?』
蒼月が、視聴者に語りかける。
その瞬間、俺のPCのサブモニターに表示させていた、コラボ先のチャット欄が、凄まじい勢いで滝のように流れ始めた。
『きたあああああ!』
『伝説のお便りの主!!』
『和尚がついに!!』
『全裸待機してたぞ!!』
チャットの流れる速度が異常すぎて、もはや文字が読めない。
ただ、画面右上に表示されている【同接カウンター】の数字だけが、狂ったように跳ね上がっていくのが見えた。
10万……13万……17万……。
「う、嘘だろ……?」
俺は、震える声で呟いた。
『ルシフェル社長。同接が【二十万人】を突破しました』
ジェミニ先生が、無機質なテキストで残酷な事実を告げる。
『現在、日本のYouTubeライブにおける同接ランキング一位を独走中です。社長の「過去の惨めさ」は、今や日本で最も注目されるエンターテインメント・コンテンツに成長しました』
「やめてくれ……! 二十万人の前で公開処刑されるおっさんの身にもなってくれよ!」
俺は泣きそうになった。
二十万人。ドーム球場を四つ満杯にしてもまだ足りない人数の群衆が、俺の黒歴史を聞くために集まっているのだ。
『さあ、みんな! 今日はね、僕がかつて「限界リスナーのお便り紹介」で読んだ、あの方と繋がっています!』
蒼月の声が、一段と高くなる。
『あの、「うすら体調悪い状態で朝7時に起きる」「壮大な設定だけ妄想して1行も本文を書けないまま作家を目指す」という、圧倒的な質感のお便りをくれた、あの40歳の方です!』
「ぐふぅっ……!」
俺は、自分の過去の文章を読み上げられ、心臓を直接素手で握り潰されたような痛みに襲われた。
やめてくれ。二十万人の前でその痛いポエムを蒸し返さないでくれ。
『なんとそのお方が! 今や「V−Breaking」で優勝し、月商数千万を稼ぐ会社の社長になっているという噂を聞きつけまして!』
蒼月が、ドラムロールのSE(効果音)を鳴らす。
『今日、奇跡のコラボが実現しました! それではお呼びしましょう! 株式会社インフィニティ・ワン代表取締役、ルシフェル社長……いや、秋谷さんです! どうぞー!』
「っ……!!」
俺の出番だ。
ここで、カッコつけてはいけない。
俺は今、背後の税務調査官・黒岩に「俺があの底辺の40歳本人だ」と証明するためにここにいるのだ。
結愛の指示通り、声のトーンを極限まで落とし、マイクに顔を近づける。
「……あ、あ、どうも……。……初めまして。その……秋谷、です……」
俺は、かすれた、本当に自信のなさそうなおっさんのリアルな声を出した。
その瞬間。
相手の配信画面に、俺の【リアル秋谷モード】のアバターが、ドカン! と大写しにされた。
毛玉だらけのジャージ。
ピョンと跳ねた寝癖。
片手に持った、湯気の出る150円の限界みそラーメン。
もう片方の手に握られた、画面のバキバキに割れた格安スマホ。
そして、部屋の窓の隙間から拾い上げた、帯広の「ヒューッ……」という冷たい春の風の環境音。
『…………』
二十万人が見守る配信枠が、一瞬、完全に静まり返った。
相手の蒼月すらも、俺のあまりにも悲惨なアバターと、生々しい環境音に言葉を失っているのがわかった。
数秒の、永遠にも似た沈黙の後。
チャット欄が、大爆発を起こした。
『うおおおおおおおお!!』
『質感がエグすぎる!!!』
『なんだこのアバター!? 匂いまでしてきそうなんだが!!』
『スマホ割れてるのリアルすぎwww』
『後ろで鳴ってる風の音が寒すぎるだろ!!』
『和尚、お前本当にあの時の底辺おじさんだったのか……ッ!!』
凄まじい反響だった。
「作られた社長キャラクター」だと思っていた二十万人のリスナーの心に、俺の泥臭すぎる【リアルな質感】が、メテオストライクのように直撃したのだ。
『ルシフェル社長。完璧な滑り出しです。視聴者の「同情」と「哀れみ」のパラメーターが急上昇しています』
結愛の声が、珍しく興奮を帯びている。
『ピローン♪』
『社長。早速、共感の換金が始まりました』
ジェミニ先生の報告と同時に。
相手の配信画面の右端で、極彩色のスーパーチャットが、まるで滝を逆流するかのように打ち上がり始めた。
『スパチャ:10,000円(和尚!! そのラーメン、せめてチャーシュー乗せて食え!!)』
『スパチャ:50,000円(スマホの画面直せ!! これで新しいの買え!!)』
『スパチャ:10,000円(1行も書けなかったおっさんが社長って、泣けるぜ!!)』
赤、青、緑、黄色。
飛び交う札束の雨。
それは、俺の「黒歴史」という名のプライドが、資本主義の魔法によって【現金(キャッシュ)】へと変換されていく、狂気の光景だった。
「……あ、あばばばばば」
俺は、あまりのスパチャの勢いと、二十万人というプレッシャーに、本気で白目を剥きそうになっていた。
(だめだ……! 俺のプライドが、スパチャの炎で焼かれていく……っ!)
その時だった。
「……秋谷社長」
背後から、ボソリと。
気配を完全に消していたはずの税務調査官・黒岩が、信じられないものを見るような声で呟いた。
「これだけの群衆を集め、自らの惨めな過去を包み隠さず披露し、そして莫大な資金を集める……。……これが、あなたの『仕事』なのですか」
黒岩の声には、もはや疑念の色はなかった。
あるのは、理解を超えた現代の錬金術に対する、純粋な【驚愕】だけだ。
「……そうです、黒岩さん」
俺は、ミュートボタンを押したまま、背後の黒岩に向かって、泣き笑いのような顔で振り向いた。
「これが、何者にもなれなかった四十歳が、資本主義の底辺で泥水すすって編み出した……命懸けのビジネス(公開処刑)なんですよ……っ」
開幕から同接二十万人。
飛び交う数百万のスーパーチャット。
そして、その光景を背後で目撃し、言葉を失う税務調査官。
帯広の四畳半を舞台にした、前代未聞の【黒歴史カミングアウト・コラボ】は、俺の精神力をゴリゴリと削りながら、最高潮の熱狂へと突入していったのである。
ゆうき あきや
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コメント
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あっ…この回、心臓がバクバクしたよ…! 同接20万人て…ドーム4個分って考えただけで震える。でも、その巨大な注目を浴びながらも「底辺のおじさんの生の質感」を武器にしてる秋谷さんのスタイル、めっちゃ好き。 チャーシュー乗せろのスパチャと税務署の黒岩さんの驚きが同時に来るカオス、最高すぎる。この泥臭さが「資本主義の公開処刑」って言葉に全部詰まってる気がした。続きが気になる…!🌙