◻︎お気に入りのブラウス
それから二週間ほどたった日曜日。
礼子から“ちょっと手伝って欲しいからきて”と連絡があって、またあの写真館にやってきた。
「こっちこっち!」
「美和子さん、お久しぶりです」
呼ばれて行くとそこには、結衣と礼子と、それからあの日に見たおばあちゃんがいた。
「結衣ちゃん、元気にしてた?」
「はい、礼子さんに色々教えてもらいながら頑張ってます。で、それから…」
結衣は車椅子に座っているおばあちゃんを向いた。
「礼子、もしかして?」
「そう、偶然なんだけど、あの日のおばあちゃんなの。本人は憶えてないみたいだけどね」
おばあちゃんは、真っ直ぐ前を向いているけれどその視線はどこにもピントが合っていないようだ。
「島本静江さんです。私の担当じゃないんだけど。ね、静江さん?」
「え?あ。ここはどこ?」
「お写真を撮るところですよ」
「あー、そうだった、でもこのお洋服じゃダメなのよ、結衣ちゃん」
「そうでしたね、じゃあ、取りに帰りましょうか?」
「うんうん、帰ろう帰ろう…」
子どものようにはしゃぐおばあちゃんのその瞳には、結衣以外のものは何も見えていないようだ。
「…というわけで、この静江さんを自宅まで連れて行って欲しいのよ、結衣ちゃんと一緒に」
「え?手伝いってそれ?」
「うん、私が行ければよかったんだけど。ご家族に話したらね、“係の人が連れてきて連れて帰ってくれるなら家に来てもいい”って言ってるの」
_____家に来ても…か。
家に帰って来ても…じゃないんだと寂しくなった。
まるで他人行儀な言い方から、家族としての気持ちが離れているのがわかる。
_____そんな家族がいる家に連れて帰ってもいいのかな
「結衣ちゃん、私がついて行ってもいいの?」
「はい、私から礼子さんにお願いしたんです。静江さんの願いを叶えてあげたいので、一緒に行ってください」
「わかった。何もできないけど」
「いえ、きっと美和子さんがいてくれたら100人力ですから」
「そんなに腕力ないけどね」
写真館の人に事情を話して、またの機会にとお願いする。
「何度でもかまいませんよ。お気に入りの服があるといいですね」
にこやかに笑うご主人からは、慈しむような眼差しが感じられた。
おそらく、最後の写真が一番長く人目に触れるもので大切なものだとわかっているからだろう。
「車椅子と施設の車は、ここに置かせてもらうから。静江さんはゆっくりなら歩けるからね。美和子、お願いしていい?」
「うん、大丈夫。結衣ちゃんナビしてね」
「はい、スマホで行けます」
静江と結衣を乗せて、静江の家に向かう。
あの日見た静江の家族…(多分、娘)はどんな顔をするのだろうか。
「よかったですね、静江さん、もうすぐおうちですよ」
「………」
黙ったままで窓から外を見ていた静江の目に、涙が浮かんでいるのがルームミラー越しにわかった。
車を門の前に停めて、結衣が玄関へ行く。
時計を見ると午後2時を少し過ぎた所だ。
「美和子さん、こっち側に車をお願いします」
「了解!」
結衣の指示で庭まで入り、車をとめる。
「静江さん、着きましたよ」
後ろのスライドドアを開けて、静江の手を引く。
静江の顔に赤みが差して、瞳に生気が戻ったようだ。
私も結衣と反対側の手を抱えるように持って、静江の歩きを手伝う。
一歩、また一歩と歩を進めるたびに、静江の歩みがしっかりしてくるのは不思議だ。
「ただいま帰りました」
結衣が玄関から奥に声をかけると、パタパタと足音がしてあの日静江といた女性が出てきた。
「お母さん…」
「ただいま、香代。長い間留守にしてごめんね…、お腹、空いただろ?」
「空いてないよ、それより、上がって」
上がり框から、ゆっくりと中へ入る。
静江の手を持つ私は、香代と呼ばれたその人に役目をかわろうとしたけど、首を振って拒否された。
_____お母さんなのに?
ゆっくり歩いて、和室まできた。
そっと襖を開けると、静江は何かを確かめるように大きく深呼吸をした。
「やっと帰ってきた…」
部屋に入ると、私と結衣の手をほどいてゆっくりと自分で畳に座った。
結衣と私は部屋の隅に座り、静江の様子を見守る。
かちゃかちゃと音がして、お茶を三つ、香代が運んできた。
「お手数をおかけして申し訳ありません。こんな所でなんですが、お茶でもどうぞ」
「あー、お構いなくと言いたいところですが、喉が渇いたのでいただきます」
慣れない道での運転はやはり緊張した。
部屋の中央に座った静江は、ぼーっと部屋の中を見ている。
「あの…失礼ですが他にご家族は?」
「私の娘がいますが、今はまだ学校です。高校生です」
「では女性三代で暮らしてらっしゃったんですね?」
「はい、私が10年前に離婚して娘とここに戻って来てからは3人です」
ため息とも感嘆とも取れる静江からの気配を気にしながら、小さな声で話を続ける。
「どうして家に帰るのを、その…望まれなかったというか…」
どう言えばいいのかわからなかった。
“どうして帰りたがる母親の一時帰宅を拒否したのか?”
そう言いたいのだけど、どこの家にも都合というものがある。
それを否定するような言い方はしたくないと思う。
「おっしゃりたいことは、わかってます。冷たい娘だとお思いですよね?」
「いや、そんなことは。それぞれ事情がありますから」
そこからしばらく、言葉が途切れた。
「香代、そこのタンスの2段目から、私のブラウスを取ってちょうだいな」
何かを思い出したような静江。
「はいはい、どれのことかな?」
香代は立ち上がって、静江に言われたタンスを開け、二、三枚のブラウスを出した。
アイボリーと薄い紫とえんじ色の3枚。
静江の前に3枚を並べた。
「これよ、これ、お写真撮るならこれじゃないとね」
にこやかに笑う静江は、薄い紫の七分袖のブラウスを手にしていた。
「あ、それ?」
「これよ、ずっと着たかったのは」
そのブラウスに頬擦りをしている静江。
よほど大切な物なのだろう。
「お気に入りがあったんですね」
「これは私が若い頃に母の日にプレゼントした物です、あの頃はお金がなくて本当に安物なんですよ、なのに…」
少し恥ずかしそうな香代の目に、きらりと光るものがあった。
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