あの子だけが、唯一俺がなし得た〝いい事〟の証だ。
ろくでもない、生きている価値のない俺が、他人の人生を変えるほど〝いい事〟をした。
あかり――、朱里の命を救う事ができた。
あの子に頼られ、求められた時は、この上ない多幸感が俺を包んだ。
――縋りたい。
朱里のもとへ行って、『俺を愛してくれ、求めてくれ』と言いたい。
彼女に愛されたなら、きっと俺の心にポッカリと空いている穴が、すべて満たされるんじゃないだろうか。
朱里を強く求めるあまり、平常心を失った俺は心の中で願望を垂れ流す。
――あの子なら、俺を受け入れてくれるんじゃないだろうか?
――命の恩人という言葉をチラつかせれば、きっと……。
そこまで考え、俺はゆっくり息を吐いて気持ちを鎮めていく。
『…………駄目だ。見守るだけと決めた。せっかく父親の死を乗り越えて、社会人になるまで成長したんだから、俺が依存して押し潰す訳にいかない。…………我慢しろ。大人なんだから』
俺は自分に言い聞かせたあと、墓の前にしゃがんで手を合わせた。
『……また、改めて花を持ってくるな。これはちょっと、供えられないから』
苦笑して言ったあと、俺はボロボロになった仏花を持って歩き始めた。
そのあと、六本木の交差点近くにあるコンビニまで行き、ビールの缶を買ってはカパカパ空けていった。
買っては外で呑んで、また買って……と繰り返していたから、レジの人も呆れていただろう。
だが酒を飲んで逃げなければ、怒りや憎しみ、朱里に依存する気持ちに支配されてしまう。
すぐ近くにはタクシー乗り場もあるし、なんとかなる。
――そう思っていたが、寒くなって地下に潜り、ダウンしてしまったようだった。
**
朱里から苦手な上司と思われていたのは分かっていたが、その頃からさらに避けられているように感じた。
それが顕著になった頃に中村さんに聞けば、とうとう田村にフラれたらしい。
内心喜んだのはさて置き、少しでも力になりたくて、とりあえず上司として話を聞こうとした。
『どうした? 上村。最近様子がおかしいと、部署のやつが言っていたけど』
ミスが多くなっている事は部下から聞いていたから、これは嘘ではない。
社食で話しかけると、朱里は大きな目でジロリと俺を睨む。
朱里にとって俺は〝苦手な上司〟なんだろうが、その時の彼女は愚痴を聞いてもらえるなら誰でも良かったみたいだ。
『聞いてくださいよ。彼氏に〝もう女として見られない〟って言われたんです。……そりゃあ、ちょっとご無沙汰ですけど、彼氏としては大切にしていたつもりなのに……』
朱里はフラれたとは言わずに愚痴を言う。
――でも悪いな、全部知ってるんだ。
お前の彼氏は合コンで相良加代に会って、別れる決意をしたみたいだぞ。
田村は自分に弱さを見せない朱里より、〝女〟として分かりやすい弱さがあり、『守ってやりたい』と思わせる相良加代を選んだんだ。
すべて分かっていて、俺は心の中で囁く。
――そんな男、忘れちまえよ。
――お前を大切にできない、お前の傷に寄り添えない男なんてやめちまえ。
――女として見られない? こんなに魅力的なのに?
――それなのに他の女を選ぶっていうなら、…………俺がもらってもいいよな?
中村さんから『田村って、朱里の扱いが適当なんですよね』と聞いていた俺は、長い間イラついていた。
俺の大切な朱里に魅力がない? ふざけんなよ?
何よりも大切にして、遠くから見守り続けた俺の〝特別〟を、お前はそうやってぞんざいに扱うんだな? 田村。
朱里がお前を好きなら……と手を出さずにいたが、そう出るならこちらにも考えがある。
だから、わざと朱里が望まない答えを口にした。
『そりゃ、お前にも原因があるんじゃないか? 二十代の男っていったら、やりたい盛りだろ』
言った瞬間、朱里はムッとして俺を睨んだ。
分かってるよ。『お前は悪くない』って慰めてほしかったんだろ? でも駄目だ。
もともと俺の事を快く思っていないなら、もっと嫌いになってもいい。とにかく田村への期待は捨てろ。
『部長もシングルらしいですけど、お相手ができたらいいですね』
朱里に憎まれ口を叩かれた俺は、『そうだな』と笑って社食をあとにした。