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広がる海、海、海……! 吹き抜ける風。目の前に広がる景色。ランドマークタワーに、あの三日月形の建物はなんというんだっけ? まさに絶景――空も青くて晴れ渡り、ああ、最高に気持ちがいい!
うぅーん、と背伸びをすると、心地のよい海風が頬を撫でる。ドラマで見たことのあるビル群がそびえ、他方、周囲にはこの広い公園を楽しむ人々がいる。――ああ、幸せ。
「……きみの、そういう、新しい環境をすぐに楽しめる……そういうところが、おれは、好きだったんだよ……」
「……課長」
わたしに近づくのは課長だ。やんわりとわたしの目線を受け止め、「……遼一、って呼んで……お願い」
「遼、一さん……」
気恥ずかしい。わたしが彼を下の名で呼ぶのは、ベッドのうえにいるときだけだというのに……。彼は、そんなわたしの胸中を読んだかのように微笑する。改めて、こういう素敵なシチュエーションに置かれると、課長って本当に綺麗なひとだなあって……。
『この二日間だけは元通り、恋人でいさせて』
わたしを迎えに来た彼はそう告げた。わたしが荷造りをする室内にて。
『そしたらお互い好きにしよう』
――課長は、復縁を迫らなかった。あれほど愛し合った――求めあった恋人のマンションの一室にいるのにも関わらず。以前の課長であれば――
『ねえ。莉子。好き。……好き』
『あーもう課長邪魔しないでくださいってばぁ』
キッチンで調理をするわたしを後ろから抱き締めたり。頬ずりをしたり。
『莉ー子。ぎゅっぎゅさせてぇー』
バスタブに先に浸かると、わたしに手招きをした。澄み渡る青空のような笑顔を見せて。ちょこんと彼の前に座れば、そっと抱き締められる。――莉子。
愛しているよ――と。
「……莉子。大丈夫?」
目の前で課長の手を振られわたしは我に返った。顔をあげる。「あ……なんかトリップしてました。本当に、……課長と出会ってから、わたしの人生変わったなあって……」
「そうだね」と微笑する課長。でも彼は、わたしへの距離を詰めようとはしない。「横浜ってあんまり来たことがなかったからさぁ。ほら、意外と距離あるじゃない? せっかくだから、莉子と……一緒に行きたいなと思ってさ……」
駅のコインロッカーに荷物を入れて、横浜の景色を一望出来る公園に来ている。ある程度観光を済ませてからホテルにチェックインをするつもりだ。
連休中ということもあり、家族連れや――恋人同士の姿も目立つ。ベンチに座り、幸せな瞬間を堪能する恋人たち。手を繋ぎ、同じ景色を見るふたり。このなかに――別れを決意した恋人同士はどれだけいるのだろう。わたしたちみたいに。
「……はい」
課長が、腰に手を当て、肘を差し出してくる。その意味するところは……、
「おれたち手ぇ繋いでばっかだったろ。たまには……こういうのもいいよな?」
腕組み。腕組み……! そっか新鮮な喜び。うきうき気分で課長の肘を掴み、彼に寄り添う――あとどのくらい、この幸せな時間が残されているのかを考えながら。
* * *
「ああ面白かった……」映画館を出るとわたしは涙を拭った。「ああもう……まだ笑えちゃう」
「だよなあ」
せっかくの横浜に来たからには、中華街を散策するとか、もう少し、この土地ならではのものを堪能する手もあるであろうが。
『映画館でポップコーン食って腹抱えて笑おう』
――夢は、叶えなかった。夢は、願うためではない。叶えるためにあるのだ。
一旦ホテルにチェックインをし――誰もが知るあのタワーホテルに泊まれるなんて夢のよう――部屋もすごい、豪華で。課長が……本当に、わたしのためにいろいろとセッティングしてくれたことがよく分かった。事前にこっそりと予約を入れる計らい……願わくば、もう少し、打ち明けて欲しかった。課長の秘密主義っぷりがちょっぴり恨めしい。
それから、部屋に荷物を置いて、映画館に来ている。今夜は大忙しだ。これからホテルに戻り、着替え、ホテルのスカイラウンジに行き、ディナーにする……わたしと課長の最後の夜を最高に彩るためには最高の場所だ。
課長といえば、いま見た映画が相当ツボにはまったらしい。可笑しげにまだ口許をひくひくさせている。……笑っているのを堪える課長。可愛いな……。
思えば、わたしは課長のことをなにも知らない。家族構成。住居。訛りがないことからすると関東の人間だとは思うが。――年齢。誕生日。趣味嗜好……。
それでよく課長のことが好きだと言えたものだ。自分で呆れてしまう。
「ねーえ。遼一さん」わたしは繋ぐ彼の手を握り締め、「遼一さん的には、あの映画のどこがいったいツボでした? ……じゃない、ヤバかったですか?」
「最後に帽子取ってすっぽんぽんになる場面」
「……わたしも」課長と同じポイントを好きになれたことを嬉しく思う。「ええ、もう、……最高でしたね。子どもを想う父親の姿が健気で……ストリッパーの話って聞いたからどんなものだろう、と危惧していたんですが。蓋を開けてみれば立派なコメディ、でしたよ……。わたし、二時間ずっと笑いっぱなしでした……」
「莉子。おれ。……あのさ」
「……はい」
真剣な面持ちの課長につい、期待をしてしまう。……が、わたしは時間を意識した。「えっと課長、こっから部屋戻って、って予約結構ぎりぎりですよ。急ぎましょう……」
なにか言いたげな課長は、だが、頷いた。「……分かった」
* * *
きらめく宝石の海が眼前に広がる。港町ヨコハマを眺められる、横に長い大きな窓が、この世界の美しさを暴き出している。あまりの美しさに、息を、飲んだ。
「綺麗……」
「本当に」
知らず、手を組み合わせていた。堂々とテーブルのうえに手を出し。ここは、そういう場所だ。それが許される場所。
最高の景色を眺めることの出来るテーブル席に座っている。課長はいつも通り、わたしの右側に。
「わたし……幸せ」矛盾しているのは分かっている。課長のことを責めたのは他ならぬわたしだというのに。彼の与えうる幸せを享受する、女という器に成り果てる。「課長と、こんなにも素敵な夜景を眺められて本当に……幸せ……」
「おれも、幸せ……」感じ入ったふうに課長が、「ずっと……こうしていられたらいいのにな」
分かっている。それは、無理だということが。課長の価値観をわたしは――知らない。ひょっとしたら、これは、人生に一度のスペシャルイベントではなく、もしかしたら数ヶ月に一回を予定している習慣となりうるかもしれない。そうするとわたしのなかで感動が――色あせていく。
初めて味わったときの感動を忘れ、ただ、貪る――獣と成り果てる。
そのことが、わたしには怖かった。だから、課長を選ぶことは出来ない。
メニューとお冷が運ばれてきた。メニューはコース料理がメインのようだが、見ていてもちんぷんかんぷん。「なんですかこの……パテドカンパーニュっていうのは」
「豚肉やレバーをミンチにして型に詰めて、焼き上げる料理だ。フランス語で「田舎風パテ」の意味。濃厚で濃密で、肉の旨味がぎゅっと詰まっていて、たまらない気持ちになるはずさ」
「流石課長……」値段を見て目を剥いた。うわ。一泊出来るお値段だわ。「えーと課長は、どのコースにされます?」
「勿論このシリウスディナーさ。莉子も同じのにするんだよ?」
「こんなに……食べられるかなあ……」さっき映画館でLサイズのポップコーンを平らげてきたばかりなのに。けど、でも……だからこそ、課長との残された時間を大切にしたかった。「あーあ。お腹ぺっこぺこにしてくればよかった……。
ってこんなこと言ったら課長に失礼ですよね。ごめんなさい……」
わたしは下を向いたのだが。課長は、
「きみのそういう、素直なところが、大好きなんだよ……」
課長。目を潤ませてそんなことを言わないで。わたし、……誤解しちゃう。
本当は、あなたが、わたしのことを愛しているんじゃないかって……!
「わたしはそういう、課長の……なんでも、素直に打ち明けるところが……大好きです」
声がふるえるのは、抑えた。この気持ちを……悟られてはならない。綺麗に、お別れをするのだ。だってあなたの未来にもう、わたしは……いないのだから。
「褒め上手で。テクニシャンで。……会社でクールな顔してるくせに情熱家で。どれだけ……ひとのことを気持ちよくすればいいのかってくらいに強欲で。
慎ましく見えるくせに、意外と金遣いが荒くって。自信家で。……綺麗で。一途で……尊大で」
わたしは課長の眼差しを受け止めると出来る限りに微笑んだ。
「そんな課長が、大好き、……です……」
「莉子……」
わたしたちのあいだに流れるこの空気はなんなのだろう、とわたしは思う。まるで両想いの恋人同士のような……いや、違う。課長が好きなのはわたしではない。あくまで、自分の思い通りに動いてくれる女性……であれば、わたしでなくとも役割は果たせるはず。
そう。課長のように美しくて性格のいい男であれば、他に女なんて――きっと見つかる。絶対に見つかる。わたしみたいな、こんなきらびやかな場所に来るたびに、気後れしてしまう、貧乏くさい女なんか、課長にはふさわしくないのだ。
わたしはメニューをめくると、意図的に声を張った。「……課長。なに飲まれます? わたし、一口だけでいいからワインが飲みたい……」
「分かった。分かったよ……」課長は絶対、最初にふたりで飲んだ晩のわたしの体たらくを思い返しているに違いない。「いいけど。水と間違えてぐぃーっと日本酒呷るのとかナシだからね? 気を付けて……」
「うっわわたしそんなことしたんですか。……引きます……」
「日本酒のシャンパン美味かったよなあ……」感慨深げに課長が言う。「あれさぁ。おれもあんとき初めて飲んだけど……たまらなかった。また行きたい」
「……あの店、課長の行きつけのお店じゃないんですか?」
「や、行っても月一回程度かな。ひとりだとあんま頼めねえし。大将が気さくで……面白えんだ」
「……残念ながら、冒頭以外、あのお寿司屋さんでの記憶がほとんど残っておらず」
「そっか。じゃあ……生まれ変わったら来世でまたきみとあの店に行こう……。なんの悩みもなく。苦しみもなく。解き放たれた場所で……」
「課長……」
「そろそろ頼もっか」しんみりとしかけた空気を課長が打ち切った。「じゃあ、莉子が赤ワインで……そうだな、おれも同じのにしよう」
ウェイターさんがすぐに近寄ってくる。ここはそういう店だ。サービスが行き届いている。見れば、わたしたちのように、最高の景色、最高の料理を楽しむためにここを訪れる恋人たちばかりだった。
ワインがサーブされるとわたしたちはグラスを合わせた。「――莉子の、未来に」
「課長の、未来に……」
乾杯、と言って微笑み合う。わたしたちの最高で最後の夜はまだ――始まったばかりであった。
*