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#契約結婚
草原草原

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72
#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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ドレスは、紺だった。
創業記念日の夕方、目黒川沿いの家の客間に、平たい箱が一つ届いていた。
中には、膝下までの紺のドレス。袖は肘まで、胸元は詰まっていて、背中だけが少し開いている。
それから、黒いレースの仮面。目元だけを覆う、細いリボンのついたもの。
添えてあったカードには、一行だけ。
『眼鏡は置いていけ』
袖を通すと、肩も、腰も、丈も、測ったようにぴったりだった。
この家に来た最初の夜の、部屋着と同じだった。
*
リビングで待っていた社長は、黒のタキシードを着ていた。
髪はいつもどおり後ろに流している。手に、自分の分の黒い仮面を持っていた。
客間から出てきた私を見て、社長は動きを止めた。
一秒。二秒。三秒。
何も言わない。私の顔を、ただ見ていた。
「……眼鏡は、置いてきました」
「見ればわかる」
社長は、目を逸らさなかった。いつもなら、ここで書類か窓の外に目を移すのに。
「変、ですか」
「変ではない」
一本の線。
それきり、社長はまた黙った。私の顔の、どこを見ているのかわからない。眼鏡がないと、人の視線はこんなにまっすぐ届くのだと、私は初めて知った。
「後ろを向け」
言われるまま背を向けると、社長の指が、私の手から黒いレースの仮面を取った。
目元に、そっと当てられる。後ろで、リボンが結ばれる。指先が一度だけ、うなじの髪に触れた。
「きつくないか」
「……大丈夫です」
本当は、少しだけ息が苦しかった。リボンのせいではなかった。
*
会場は、都内のホテルの、一番大きなバンケットだった。
シャンデリアの下に、仮面をつけた五百人。役員、取引先、株主、銀行の人たち。黒、金、銀、羽根のついたもの、顔の上半分を全部覆うもの。
誰が誰だか、わからない。それが、この夜の趣向だった。
社長の腕に手をかけて入っていくと、何人もの仮面がこちらを向いた。
「社長、そちらは」
「秘書だ」
「秘書……の、瀬名さん? あの、眼鏡の?」
取引先の誰かが、本気で驚いた声を出した。
私は、軽く頭を下げただけだった。眼鏡がないと、地味な秘書は、誰にも見つからないらしい。
困ったのは、私のほうだった。
仮面は、目元を隠す。
私が嘘を見るときに頼っている場所の、半分を。
口元は見える。けれど、目尻の皺が動いたか、瞬きが止まったか、眉の内側が上がったか。それが、レースや金の縁の向こうに、全部沈んでしまう。
見えるのは、輪郭の半分だけ。ぶれたのか、ぶれていないのか、確信が持てない。
「読めないか」
社長が、私の耳元で低く言った。
「半分だけです」
「なら、今夜は半分でいい」
社長は、近づいてきた銀行の役員に、仮面の下で短く挨拶をした。
「残りの半分は、私が見る」
*
人波の向こうから、紺の地味な仮面をつけた人が、ゆっくり近づいてきた。
銀色の混じった柔らかい髪。少しだけ丸まった背中。今夜は、カーディガンではなく、きちんとしたタキシードを着ている。
「瀬名さん、だね」
副社長は、仮面の下で穏やかに笑った。
「見違えたよ。眼鏡がないと、ずいぶん印象が変わるものだね」
仮面の縁から下だけの、輪郭。一本の線、に見えた。半分しか見えないから、確かではない。
「……どうして、私だとおわかりに」
「怜くんの隣にいるのは、君だけだろう」
副社長は、社長の肩を軽く叩いて、別の輪のほうへ歩いていった。
取引先の人たちは、社長が「秘書だ」と言うまで、誰も私に気づかなかった。
副社長だけが、一目で私の名前を呼んだ。
理由は、今聞いたとおりなのだろう。たぶん。
それなのに、背中の開いたところに、少しだけ冷たい風が当たった気がした。
*
会場の正面、ステージの脇に、ガラスの展示ケースが一つ置かれていた。
中に、黒い軸の古い万年筆が一本。金のクリップに、鷹の羽根の紋が彫ってある。
鷹宮の創業者が、最初の契約書に署名したときのものだと、司会が紹介した。今は会長が受け継いでいて、毎年この夜だけ、ケースに入れて飾られる。
今年は、会長が療養中で、ペンだけが出席している。
乾杯のあと、会場の照明が落とされた。
ステージのスクリーンに、創業からの歴史をまとめた映像が流れはじめる。古い白黒の写真、最初の社屋、鷹宮タワーの建設現場。
三分ほどの、暗闇だった。
照明が戻ったとき、会場のどこかで、短い悲鳴が上がった。
展示ケースのガラスの扉が、開いていた。
黒い万年筆は、どこにもなかった。
*
会場の隅が、にわかに騒がしくなった。
ホテルの宴会担当の制服を着た、若い女の子が一人、青い顔で立ち尽くしている。二十歳くらい。アルバイトの名札をつけていた。
彼女の手に、展示ケースの小さな鍵が握られていた。
「この子がケースの係でした」
宴会担当の主任が、汗を拭きながら説明する。
「鍵を預かっていたのは、この子だけで」
「暗くなる直前、その子がケースの前にいるのを、僕、見ましたよ」
人垣の中から、若い男の声がした。
細身のスーツに、銀色の仮面。顔の上半分が、金属の板で覆われている。
「営業部の堂島です」
男は、気軽な調子で名乗った。
堂島。堂島常務の、甥だ。名前は、役員会の資料の人事の欄で見たことがある。営業部の、堂島翔。
アルバイトの子が、震える声で言った。
「わ、私、ケースには、触ってません。暗くなったときは、ステージの裏にいて」
彼女の顔を見た。仮面はつけていない。
輪郭は、一本の線のままだった。
ぶれない。
この子は、嘘をついていない。
「僕はね、映像のあいだ、ずっとここに立ってましたよ」
堂島翔さんが、肩をすくめた。
「僕は、会場から一歩も出ていません」
私は、彼の口元を見ていた。
言い終えた瞬間、彼の唇が、内側にきゅっと巻き込まれた。言葉を飲み込むときの動き。
けれど、その上の目元は、銀色の板の向こうだった。瞬きも、目尻も、何も見えない。
ぶれたのか、ぶれていないのか。
輪郭の下半分だけが、ほんのわずかに揺れたような気がした。気がした、だけだ。
癖で、眼鏡のブリッジを押し上げようとして、指が空を切った。
眼鏡は、家に置いてきたのだった。
隣で、社長が、私の空振りした指先を見ていた。
それだけで、伝わったらしい。社長は、何も言わずに小さくうなずいた。
読めない。
この会場では、私の目は、半分しか働かない。
*
「君、さっきから、人の口元ばかり見てるね」
すぐ後ろから、声がした。
振り返ると、男が一人、シャンパンのグラスを持って立っていた。
ゆるくパーマのかかった、明るめの髪。白いシャツの首元を開けて、ネクタイを締めていない。紺のジャケット。
仮面は、つけていなかった。黒い羽根の仮面を、指先でくるくると回している。
「つけると、前が見えにくいからね」
男は、目尻に皺を寄せて笑った。
くっきりとした、一本の線。作り笑いではない笑い方だった。
「面白い。口元だけで、何がわかるの?」
「……何の、ことでしょうか」
「さっきの銀の仮面の彼。君、彼の唇が動いた瞬間に、ちょっとだけ眉をひそめたでしょう。それから、そこにない眼鏡を押し上げようとした」
男は、楽しそうに私を見ていた。
「人の顔を、そうやって見る人。僕、初めて見たよ」
社長が、私と男の間に、半歩だけ体を入れた。
男は、気にした様子もなく、ジャケットの内ポケットから名刺を一枚取り出した。
それを、社長ではなく、私に差し出した。
『御影キャピタル・パートナーズ 代表 御影蒼司』
コメント
1件
まだまだ序盤って感じだけど、この第18話すごく好きです。ドレスの紺色、眼鏡がないときの社長のまっすぐな視線、嘘を見抜くのに半分しか使えないもどかしさ…一つ一つの描写が丁寧で、目に浮かびました。特に「半分だけです」「なら今夜は半分でいい。残りの半分は私が見る」って会話、社長がかっこよすぎて息止まりました。御影っていう胡散臭いのも気になるし、続きがめっちゃ気になります👀🤍