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第一章:風が変わる朝
朝露が光る石段を、静かに掃きながら、少年は何度も風鈴を見上げた。
昨夜、確かになった筈だ。
風のない空気の中、誰にも触れられていない筈のその鈴が、静かに──
「今日は、鳴らないんだな」
囁くような声に応える者はいない。
紅葉色の鈴は、まるで“何もなかった”かのように、静かに吊るされていた。
それでも少年──鈴守の紅都の胸の奥には、
昨日までとは違う何かが張り付いているようだった。
(…神気の流れが、妙に重い)
彼は人間とハーフの獣人だ。
人よりも鋭い耳、触ると居心地良さそうな尾、そして神域の変化に敏感な心。
神社の空気は今朝、どこか「澄みすぎて」いた。
それは霧が晴れたような清らかさでは無く、
まるで空っぽの部屋に一人きりでいるような不思議な静けさだった。
「…時間か、行かないと遅刻する」
制服を身に纏った紅都はもう一度、風鈴を見た。
鈴は何も語らない。
それでも、彼はその音が“嘘では無かった”と信じていた。
今日から紅都は、人間の学校に通う。
そしてきっと、昨日の音は、それだけでは終わらない。
学園の校門を潜った瞬間、空気が変わった。
鳥居を抜けた時には感じなかった〔視線の重み〕が、
ここには確かに存在していた。
紅都の耳がぴくりと動く。
足音、笑い声、制服の擦れる音──
音が、まるで波のように襲ってくる。
(…賑やかで騒がしい)
普段神域で静かに暮らす彼にとって、
ここはまるで別世界だった。
校舎の前で、目を留めた生徒達が小声で囁き合う。
「獣人って…あいつか?」「人間のハーフらしいよ」「初めて見た」「あの耳と尻尾マジで生えてんの?」
好奇、警戒、時に軽い侮蔑──どの声も、紅都の耳には届いてしまう
(だから…、嫌いなんだ)
目を伏せ、口を結び、黙って歩く。
堂々と、けれど誰の目にも“触れないように”通り過ぎる。
それが、紅都が“一応”獣人として学んできた処世術だった。
──だが。
「あ、もしかして君も新入生?」
唐突に話しかけられた。
振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。
耳がふさふさしていて、目は秋を連想させる琥珀色。
「今日からなんだよね?私もだよ。獣人だけを集めたクラスはこっちだよ!」
彼女の名前は紅李。
落ち着いた“音”がする。
それは、初めて差し出された“同じ立場”の手だった。
紅都は一瞬だけ戸惑い、そして──
小さく、ほんの小さく、目を細めて頷いた。
(…案外悪くないかも)
そんなふうに思えたのは、本当に、ほんの一瞬だった。
「──鈴守君?」
教室の扉がノックされ、神職課の教師・和奏先生が立っていた。
「すぐに神社に戻ってもらえる?境界の異常反応があったんだ。有明月神社で」
空気が止まった。
クラスメイトは驚いた顔をしている。
けれど紅都は、静かに立ち上がった。
表情に動揺はない。
けれどその瞳には、確かな光が宿っていた。
(…やっぱりあれは“前触れ”だったみたいだ)
風が変わった。
鈴がなった。
その意味を、彼は知っていた。